道標
「1試合で数百万~数兆円規模でお金が動く」
「毎週末は、クレイジーパーティ」
「チケットは高いし毎試合とれるわけではない。スタジアムはいつも満員」
「スタジアムに入れない人は、駐車場でBBQやビッグスクリーンで生中継」
「放映権を持っているから、スポンサーや広告が多く集まる」
日本にいた頃の私だったら、
サッカーワールドカップ?
バレーボールの世界大会?
オリンピックの開会式?
と考えただろう。
これは、ホームステイ先のお父さんが教えてくれた、
アメリカのカレッジフットボールの説明。
アメリカでは、カレッジスポーツがビジネスと大きく結びついている。
放映権、アパレル、スポンサー、、、一試合で動くお金の規模もとても大きい。(ちなみに覚えていない)
オハイオ州立大学の敷地内をドライブして、アメフトのスタジアムを実際に見たが、入場ゲートだけで一つの芸術作品だった。そして、日本の横浜スタジアムのようなたたずまい。
「これがアメリカの大学スポーツの規模か……」
圧倒された。
試合がある日にはここに何百万人の人が集まり、チケットがとれなくても駐車場でパブリックビューイングをしてお祭り騒ぎ。これが週末に何度も行われる……
いつか、実際に見てみたい…
まだテレビでしか見たこと無いし、コロナの影響で試合は無観客か限られた入場者のみ。
でも、選手の入場シーンを見て自然と、両腕から首にかけて鳥肌がたった。
「なんだこれは?」
羨ましいのだろうか?
悔しいのだろうか? それとも、
懐かしいのだろうか?
今後のことを考える機会が増えたこともあって、自分が何をしたいのかを模索しながら、
鳥肌が立つような、感動が渦巻いているような、人々が熱くなって、活力がみなぎっているような、そんな瞬間をこれからも味わっていきたいと思っていた。
そして、アメリカのカレッジスポーツに圧倒され、魅了された。
「日本の大学スポーツも、こうだったらなあ」
もし日本でも、大学スポーツやプロスポーツがこんなに人気だったら?
スポーツに夢を抱く子どもたちが増えるかもしれない。
スポーツの価値が変わるかもしれない。
新しい文化が生まれるかもしれない。
日本にいる父ちゃんが、毎週末を楽しみにするかもしれない。
家族の会話が増えるかもしれない。
友達との思い出が増えるかもしれない。
いろんな可能性が頭の中に浮かんだ。
作り上げたい、なんておこがましい。でも、気になるなあ。私のやりたいこと?なのかなあ。
最近は、「○○がしたい」「○○になりたい」という言葉を簡単に口に出来なくなっている自分がいる。
「私にはそんな事できない」
「私がそんな事をするなんて、おこがましい」
「私にはそれが出来るほどの能力も知識もない」
そんな言葉が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返している。
要は、覚悟がないんだと思う。
そして、覚悟を口にする勇気もないんだと思う。
「じゃあ、同じ様な意思や、意欲、エネルギーを持った人達とだったら?」
これを自分に問いかけてみると、
「挑戦してみたい」という気持ちが湧いてくる。
「あぁ、私は、一人でやろうとするから勇気や覚悟が持てないのか。じゃあ、同じ様なビジョンや感覚を持っていて、意欲や知識、能力など、いろんなものを私よりも持ち合わせている人達のいる環境だったら、挑戦してみたいと思えるのか。」
サッカーも同じ。
同じ志を持った仲間と共に戦う試合や練習は、人との繋がりを感じられたり、時間が尊いものに感じられたり、振り返れば胸が熱くなる。
逆に、皆が同じ方向を向けていない状態のチームにいると、自分の事しか考えなくなるし、過去のチームを懐かしむ時間が増える。
「誰と、何を目指し、どう戦うか」
サッカー人生においても、こういった要素が私にとって大きな影響を与えてきたのだなという事に気づいた。
私にとっての
『前提』は?
『基準』は?
『指標』は?
終わりなき思考。な気がする。でも、終わった時に後悔じゃなくて満足したいから、止めない。