とある出来事。
心の底から熱くなる瞬間や、
耐えきれないくらい悔しい経験とか、
多くの経験たちが、今の自分を形成している。
言葉にしなくとも、自分(の心)がわかっているからそれでいい。
そして、目の前のボールに全力になることは、時間を忘れ、余計な雑念(例:なんで楽しいのか、を考えることさえも)を消し去るのです。
それでいいと思っていました。
私にとってサッカーは、「楽しい」。それ以外はない。
言葉にする必要はないと思っていました。
しかし、私の中でそのような概念は、壊れつつあります。
きっかけは、サッカーについて、スポーツについて、自己について、仕事について、とことんとんとんとんとん考え続けている人たちとの出会い。影響でした。(この記事では、その一つを例に取り上げます)
●小坊主の進路教室
ファシリテーター竹田さん(株式会社criacao、ホストタウンアドバイザー)が講師(社会人、多くは体育会の部活動出身者)をお招きし、その人の人生や仕事、価値観、ビジョン、葛藤を聞き出し、深掘っていくものです。
スポーツに関わってきた講師の登壇が多く、セミナーの前半はそのスポーツによってどのような人間形成がされてきたのかを中心にクロストークが展開されます。
竹田さんがよく使う言葉
「どんな時に、嬉しかったの?悔しかったの?」
「試合に勝った/負けた時、だけでは不十分。ホイッスルが鳴った瞬間なのか。仲間が喜んでる姿を見た瞬間なのか。両親や大切な人に結果を伝えた瞬間なのか。」
こういった問いを自分にも向けてみました。(※サッカー)
・相手を抜き去る瞬間
・両親が試合を見に来てくれている事に気づいた瞬間
・仲間からの声援が聞こえた瞬間
・思うように足が動かなくなった瞬間
・初めて公式戦のピッチに足を踏み入れた瞬間
・大きなスタジアム、歓声や応援歌が聞こえるピッチでのファーストタッチ
・自分の名前が呼ばれなかった瞬間
などなど、、、
サッカーを通して私にインパクトを与えてきた瞬間が次々と思い起こされました。
こうやって思い起こしてみると、サッカーを通して様々な感情を経験してきました。大半の時間で思っているのは、サッカーって楽しい。ということ。
今回は、「楽しい」という感情について深堀ってみました。
私は、
香川選手の様に観ている人を一瞬のファーストタッチで虜にし、魅了する。
ような、
ゴールした瞬間に誰もがそれに釘付けになる。時間を忘れ、その瞬間を喜び合う。生きる。
ような、
こういった瞬間に、サッカーやスポーツの魅力を感じ、またこれを自分ができるようになりたいと思い描いてきました。そして、現在に至ります。
どうして「夢中になる」「釘付けになる」「魅了する」瞬間にサッカーの価値を見出しているのか、、、
小さい頃から、好奇心の強かった私。
学校の勉強に対しても、休み時間のドッジボールに関しても、わからないことやできないことが不安で、毎日全力で取り組んでいました。(単純に、【知る】ことが好きでした)
小学校4年生のころ、仲の良かった友達に誘ってもらい、地元の小学校のチームで始めたサッカーも同じで、【足でボールを扱う】という複雑で難しいことがどんどんできるようになっていく感覚が、サッカーの楽しさを膨らませていきました。
とても鮮明に覚えていることは、6年生の時、は練習で試合形式のゲームをしていた時のこと。バイタルエリアでボールを受けた私は、当時20歳くらいのOB相手にドリブルを仕掛け、抜き去り、ペナルティエリア外からロングシュートを放ちました。
シュートが入ったかは覚えていません。相手を抜き去ってシュートを良い感触で打ったほんの数秒だけが記憶に残っています。
ゾーンに入ったような感覚になったこと、
シュート後、相手が驚いた顔をしていたこと、
自分でもびっくりするくらいうまくいったこと、
これらが合わさってすごく楽しいと感じました。
こういった原体験が多く積み重なり、私にとってのサッカーの【価値】が形成されてきたのだと思います。
この一例を踏まえると、私が見出すサッカーの【価値】は、
「自分を含めた、観ている人がその瞬間に魅了され、感動を受ける瞬間」
にあると考えました。
また、
サッカーは、プレーする人によってスタイルが違う。
11人vs11人で90分の試合をする中で、全く同じ状況なんて二度と来ない。
戦術はあれど、ルールはあれど、動きの判断は選手に一任されている。
こういった単純さが、一人ひとりの動きや思考を複雑化させる。
サッカーにおいて【勝敗】はあれど、【正解/不正解】なんて無い。
そんな複雑な世界の中で、選手が魅せる唯一無二のプレーには、とても価値があると思います。
これが、私がサッカーを楽しむ要因の一つです。
この深堀りを通じて、
同じ「楽しい」でも、
「なんか楽しい」(冒頭のような)と、「絶対に楽しい」(具体的に「この瞬間!」と言える)には差分があると実感しました。
criacaoと出会って、小坊主の進路教室に参加させていただく中で、「なんか」を「絶対に」と思えるまで深掘り、言葉にしていくことが、私には必要なのではないかと思うようになりました。サッカーをもっと楽しむために。。
矛盾している気がします。複雑に(細分化、要素分解)すればするほど、「楽しい」というシンプルな言葉が大きくなっていくのです。
こうした経緯で、シンプルな感情は、複数の要素が集約されているものであり、要素が多ければ多いほど、元々のシンプルな感情は大きく(確信に近づいていくイメージ)なっていくのではないだろうか?という仮説をもつようになりました。
これが、具体と抽象を行き来する、ということなのでしょうか??
私は感覚派の人間です。(※世の中には「感覚派(直感的思考)」と「ロジック型(論理的思考)」の2つの宗派に大別されるという話を聞いたことがあります。)つまり、シンプルに、自分の感情にしたがって赴くまま生きたいのです。
しかし、言語化し、自己認知することで、自分が「何に」「いつ」心が動いているのか、第三者が聞いてイメージできるまで落とし込むことで、自分の感情(本記事では、楽しさ)をさらに強く実感することになりました。そして最終的(まだ途中ですが)には「楽しい」というシンプルな言葉に集約されていく。。。気がする。。。。
こういった経緯で、私はこう考えるようになりました。「シンプルに生きる(生き続ける?)ためには、考えて考えて考えて考えて考えて考え抜く必要がある。」
考えようではありませんか。
最後に、
~大学スポーツとはなにか~
学生最後の4年間を、スポーツに捧げる意味とは。
「スポーツが、自分の人生に彩りをつけてくれた。」
「かけがえのない経験をすることができた。」
もはや自分の一部になっている「スポーツ」について、考える意味とは。
小坊主の進路教室では、このような問いを一人ひとりが考えるきっかけがたくさんあるかと思います。
きっかけが欲しい方。「小坊主の進路教室」までお越し下さい。