見出し画像

超常的な魅力を持つキャラの一人称視点むずない?

 同性でも異性でも好きになるところ、もっと言うと「性別を超越した魅力」ってあるじゃん?俺は男だから、女性の魅力的な部分に惹かれるってのは当たり前なんだけど、同性の男性にでも魅力的だなと惹かれるところがある。

 わかりやすいところで行くと、声とかがそれにあたる。女性の低い声って良くない?ハスキーボイスみたいな感じ。好きだなーあれ。しかも、その低い声を女の子は魅力的じゃないと思ってるじゃん。高身長の女の子みたい感じ。

 小動物的な女の子がモテる現代、俺は身長高いのも、声が低いのも女性の魅力として素晴らしいと思うぞ。

 話を戻すけど、一方で男性の低い声も好きだ。後輩にすごい低くて良い声の子がいるんだけど、その子に「これお願いしても良いですか?」って言われると何でも「いいよ🤓」ってなっちゃう。これがメス化ってやつですか?文字に起こすとキモすぎるな。


 まぁそろそろ本題に入るんだけど、上記の性別を超えた魅力ってのは、ある程度は「なぜ魅力的なのか」が理解できるものだ。だが創作物には、もっと超常的な魅力を持ってるキャラってのが登場する。

 そういったキャラは、えも言われぬ魅力を持っていて登場人物を惹きつける。読者からすれば、キャラが立ってるし、すごく気になる存在だ。だが、そう言うキャラの一人称ってのは書かれない。あんまないよね?

 俺も小説を読んでいて、「このキャラがめっちゃ魅力的何かを持っているのはわかるけど、そいつの視点がないよな」ってのがあった。

 なので、このnoteでは「なぜ、超常的な魅力を持っているキャラの一人称が書かれないのか」を考えて行こうと思う。

 まずは芥川龍之介の『偸盗』

 この作品は平安時代を舞台に、夜盗の女頭目である「沙金」と、その一味で兄弟でもある「太郎」、「次郎」の三角関係が描かれる。太郎の視点と次郎の視点が入れ替わって、愛とか憎しみとかが入り乱れる物語だ。

 作中で、沙金は非常に魅力的な女として描かれる。太郎も次郎もぞっこんだし、頭目であるから盗みの計画も立てて、カリスマ性がある。俺的には沙金の視点も見てみたいのだが、存在しない。

 あくまで、彼女は夜盗の長として計画を立て、部隊の行く末を動かし、また女として、太郎と次郎の愛と憎しみを入り乱れさせる存在でしかない。

 芥川龍之介が描きたかったのが、兄弟愛だと思うので、沙金の視点がないのはしょうがないんだけど、どうも宙ぶらりんな感じがする。だから芥川龍之介は「偸盗は駄作」って言ったのかなと思う。

 ということで『偸盗』では、超常的な魅力を持つキャラクターを「舞台装置にするしかなかったため一人称を書かなかった」と考える。


 2つ目は、米澤穂信の『満願』

 この作品は短編集なので、その中でも超常的な魅力を持つキャラが出るエピソードを抜粋する。それは「柘榴」だ。

 柘榴は、母親と娘の視点が入れ替わって行く話である。詳しく話すと、母親はその昔ある男と付き合い、そのまま結婚。2人の娘をもうけ、暮らしていた。

 だが、父親が何をしているかはわからないが、そのうち家に帰ってこなくなり、離婚することに。その際、娘2人は母親と父親どちらに着くかを選ぶことになる。母親はあんな父親のもとに居させたくないので、必死で親権を主張。しかし、
娘には秘める思いがあって...って感じだ。

 この物語で超常的な魅力をもつキャラクターは父親である「鳴海」だ。母親である「さおり」は、ものすごく綺麗な方で、大学時代に知り合った鳴海を何かわからない魅力で好きになり、付き合い、結婚。「夕子」と「月子」の姉妹を作った。

 この鳴海がものすごく、超常的な魅力を持っていて、さおりだけでなく、長女である夕子も堕ちてしまう。一体こいつはどんなキャラなんだと気になるのだが、鳴海の視点は全くない。

 ただ、この作品に関しては、ミステリーの短編集であるため、不用意に人物の内面を掘り下げるべきではないからかなーと思った。やはり沙金同様、このようなキャラは舞台装置になるしかない。

 2つの作品を見比べて思ったのは、そのキャラクターが何を考えているかわからないからこそ、魅力的に感じるかもしれないということ。そのキャラの視点がないからこそ、えも言われぬ超常的な魅力を有することができるし、その説得力が出る。

 舞台装置にしかならないのは、そういう性質だからなのかもしれない。もし、超常的な魅力をもつキャラの視点がある物語があるのならぜひ読んでみたい。

 以上。思ってたより長くなってしまった。

いいなと思ったら応援しよう!