新月への扉
僕は猫。新月の夜だけ、人間になる。
正式には、人間に乗り移る。
あっ、でも化猫とか、そう言うんじゃないよ。新月になると、誰かが僕を呼ぶんだ。声にならない、その思いに導かれて、僕は夜の町に彷徨い出る…
そうだ、まずは少し自己紹介をしておこう。僕は黒猫、しっぽは短め。子供の頃から独りで生きてる。時には縄張り争いに巻き込まれて、派手に喧嘩もする。鼻の頭の傷は、男としての勲章さ。
猫好きの人間を見付けたら、ちょっとすり寄って潤んだ瞳で見上げる。そしたら豪華な夕食がゲットできる。まあそんな感じで、野良猫生活を謳歌してたってわけ。
ところが新月のある晩、不思議なことが起こったんだ。
昼の暑さも和らいで、夜になると秋の気配がする頃。僕は夜の散歩を楽しんでいた。虫の音が賑やかだった。いつもの路地を曲がろうとする時、それは起こったんだ。
全身の毛がビリビリと逆立って、アンテナみたいに何かを受信している。
「何が起こってるの?」僕は混乱した。そしてその何かに導かれるように、一軒の古い平屋の家にたどり着いた。彼女は縁側に座って、月のない夜空を見上げていた。とても悲しそうだった。気がつくと僕は、寄り添うように並んで座っていた。
僕はしばらく、その美しい横顔を見つめていた。きっと心も美しいんだろう、そう思った時だった。僕は彼女の心の中に入っていた。初めはよく分からなかった。だって目の前には、もう何ヶ月も雨が降っていないひび割れた大地が広がっていてんだから。
「ここはどこ?」僕は恐る恐る、歩き出した。まるで生きることを拒絶するように、どこまでも草木の気配すらなかった。「どうしてこんなことになっちゃったんだろう?」僕は愕然とした。
「行かないで!」悲痛な叫び声が聞こえる。「どこから聞こえるんだろう?」遠くに扉が見える。僕は思わず駆け出した。少しためらって扉を開ける。
駅だ。ぼうぜんと佇む彼女は、立ち去って行く男の背中を見つめていた。
まるで親に捨てられた子供のように、捨てられたことをまだ理解出来ずにいるみたいに。あまりにも自分の全てを捧げて、彼を無防備に愛していたみたいだった。僕はいたたまれずに、歩き出した。
また扉があった。そっと開ける。
海岸に小さな女の子がいた。風に髪をなびかせて、独りで遊んでいる。口元は微笑んでいるのに、傷ついたような瞳をしていた。小さな手は繋ぐ手を求めて、宙をさまよっていた。僕は苦しくなって、扉を探した。
最後の扉だった。温かな光に満ちた、草原のようだった。こわばった気持ちがほどけて行く。風が干し草の匂いを運んでくる。鳥の声が聞こえる。「ここがいいなぁ」僕は体を思いっきり伸ばして、柔らかな土の感触を楽しんだ。
彼女はどこにいるんだろう?
そう思いながら、眠り込んでしまった。
どれくらい時間が経ったんだろう…
「夢を見ていたのかなぁ?あれ、金木犀の匂いがする」ふと見ると、小さな庭をふさぐ様に、金木犀が満開だった。
その時だった。涙が見る見るうちに溢れて、ぽつりぽつりと縁側に落ちて行った。そしてそのまま、ずーっとずーっと、僕は泣いていた。
「いつの間に眠っちゃったんだろう?」肌寒さで目が覚めると、彼女は自分が泣いていることに気が付いた。
「夢を見ていたのかな?」泣き疲れて、でも少しだけ晴れやかな気持ちがした。澄み切った秋の空気を胸いっぱいに吸い込むと、彼女は微笑んで言った。「そろそろ歩き出そう」そして傍で見上げている黒猫の頭を、そっと撫でた。
僕はしばらく、彼女の側にいることにした。まだちょっと心配だったし、あの後もらったカマボコが美味しかったからかな。もちろん、新月の夜の散歩は続けているよ。ちょっとした夫婦喧嘩の解決はお手の物さ。人間ってホント素直じゃないんだから。僕が乗り移って本心を言えば、ほら、笑顔が帰って来る。
そうそう、母子のトラブルは、なかなか大変だったな。でもそれは、また今度ね。
そろそろ風が冷たい季節がやって来る。コタツの暖かさを知ってしまった僕は、当分彼女と暮らすつもりだ。
初めて自分が作った作品を、おとよみしました。
YouTube貼りました。ぜひ聞いてみて下さい🐈⬛
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