「作品」と「本番」と「公演」と「稽古」の意味。
稽古嫌いというか、
しまいにゃ芝居嫌いとか公に言うてるワシですが、
実際問題ほんとに別に好きではないから嘘ではない。
捉え方の問題なんだけどさ、実際。
「作品」を作る上で稽古は必要ではあるが、
「いやもうずっと通し稽古でよくね?」と実は思う。
そういう台本しか書かなくなってるせいもあるけど。
まぁうちはワシが公演を打つ気にならない限り、
「稽古」は発生しない。
要するに「公演に向けての稽古」しか発生しない。
「本番の為の稽古」とも言う。
ユニットなんで、というのは置いといて。
それでもたまにうちの子?になんかはしている。
さぼる羽目になっている映像の朗読とか、
他の事をなんかちまちまとたまにやる、足しとこうとする。
要するに「本番」の為の布石であって、
でもそれは「本番」関係ないことでもある。
覚えて、知って損はないかなということだけする。
っても次回使うかわかんないけどね!
でだよ。
「本番の為の稽古」=「作品」への道なわけですよ。
自分の中の優先順位としたら、「作品」なわけですよ。
つまりはそれは台本脱稿してからの話でしかない。
稽古で変えたとしても、
脱稿していない台本で稽古することが、
大半の役者の生理に反することや、
根本の読解力や、理解や妄想を狭めることを知っている。
それは言い換えれば作としての負けになると思う。
脱稿していないことではなくて、
役者に渡すラブレターとしてミスってるのは恥だ。
役者に渡すラブレターをミスったら観客に伝わらないと思う。
それはワシの考えなだけで、正解ではない。
ってかね、脱稿した最初の台本を貰って、
最初に役者らが思うことが一番重要であって、
そっから先はどうでもいいというか、話はまた別です。
納得してもらうには、
作品を理解してもらうには脱稿したものが必要や。
脱稿せずとも、
少なくても起承転結だけわからないとわからないやん(笑)
だから普通の人はプロット作るんだろうけども。
ワシはプロット書かないから、がーがー書くだけだ。
この間、そのプロット書かない理由を聞かれたんだが、
いやいつも聞かれるんだけど、
起承転結でいう、起と結は脳内で決まってるから、
そこに向かってガシガシ打つだけなんだよね。
自分的に起と結が決まってる時点で、真ん中も決まってるし。
プロットなんぞ書いてる暇あったら打った方が早いねん。
これはお絵描きや造形作ってた時の癖でもある。
どうせ頭で考えたって、ラフ描いてもさ、
作っていたらワシはそこから脱するから無意味なんだよ。
もれなくこれは台本書く人には勧めないけど(笑)
勧めないというか、参考にはならん話です。
まぁ本番に向けて以外の稽古なんてさ、
各自でやれって話だよ。
リハビリやら、癖やら、なんやらあったら、
んなもんワシは台本上で崩させるから、
もしくはそのままでも有りとさせるし、
ほっといても直せるといえば直せるわけですよ。
ま、こんなんユニットだから出来ると言われればそれまでだが。
ユニットな分、キャスティングって賭けなわけ。
固定じゃないから、役者本人を信じるしかないわけ。
信じてるからキャスティングするわけ。
だからそのキャスティングへの批判は受ける。
受けるが、評判良かったらそれはそれでいいわけよ。
信じられない人を自分の作品には出さない。
信じていないと感じさせてしまったらやはり負けだ。
集団というのは難しいと思う。
その場限りの座組にしても、
継続的な座組としても、なんにしても人が集まって何かするは難しい。
んなの芝居限らずだけどな。
ま、何が自分の作品に重要か、なんだけどさ。
重要の比重というか、
そこに向けるためのバランスはさ、あんだよね。
オチ、次回公演いつよ?(笑)
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