“プロ”って何ぞや?
最近ちまちまとあちこちの打ち合わせがあったりしていますけれども、どの業界でもやはりこう“プロ”っつうネタがよく出たりする。プロ意識というものの話ではあるんだが、結局のところそれは+αのことを差し出す気があるかないかのところだと個人的には思っている。それだけのことなんだけどもさ、世の中にはだね、いろんな人がいてだね、自分で自分のことを“プロ”と言い切る人らもいるわけですよ。
( ゚Д゚)え?
いやいいんですよ、別に自分で自分のことを“プロ”と思ってることは。金貰って仕事して、多少なりとも自負なり自信持ったり評価されたりでやることやってたらいいんですよ。でもさ、自分で自分のことを他人に“プロ”っていうのはなんかどうなんだ?と思ったりする。
だって“プロ”には奥行と果てしなさと追及というものがつきまとうから。
完成していないことがある種“プロ”に必須なことで、そう考えると完成していないのに“プロ”と思い、それを他人に言えちゃうのはすげぇなと思う。
否定してるわけじゃございませんよ、多種多様ですから。
クリエイティブなことをいろいろしてはおりますけれども、いろいろしている分なのもあるけれど、やること+αはやはりつきまとう試練であり、いろいろやってる分「職人」からは遠くなり、“プロ”とはやはり言わず、個人的には「似非」とよく言う。演劇で制作の仕事する場合、いつも“似非制作”と自分で言ってるしね。やること+α出来る限り出せるようにするけど、でもやはり本職かと聞かれたら違うし、仮にそれだけでやってたとしても自分で「制作のプロ」みたいなことはいわねぇだろうなぁと思う。言ってもやっぱり「制作もどき」とか言うだろう、“似非制作”が一番気に入ってるけど。
自分で“プロ”ということで責任持てるならそれはそれでいい。
何事も別に自分で“プロ”と言わずともやることはやりますよ、逃げてるわけではない、責任取らないわけでもない。背負うところはそりゃ背負う。だがしかしやはり「似非」でいいと思う、自分は。“プロ意識”なんぞ埋め込み、植え続けられているものだから持ってるには持ってるけど、その分やはり果てしない道だと思うわけですよ、いろんなことやるたびに。自分にまだ足りないと思うことが結局は“プロ意識”の根底にないとダメだと思うしね。
ま、そんなの人それぞれですけれども。
前に書いた肩書んたらの駄文シリーズとも通じる話だろうな。ま、打ち合わせしたり何かと人と会うとそういう話がよく出てきて、世代の違いや環境もあるんだろうけど、なんか笑う今日この頃。