国立戒壇と言う儚いもの。

人に夢と書いて儚いと読むが、顕正会の国立戒壇ほど儚いものは無い。

国立戒壇とは顕正会の主張の根幹であり、今の日蓮正宗はこの国立戒壇が無くなったから間違っていると言うのが顕正会の主張である。 しかし、儚いのはいくら顕正会が外で吠えていても、戒壇建立の霊場は富士大石寺であり、
その本門戒壇本堂へ安置される。日蓮大聖人の出生の本懐であり本門戒壇に安置される
本門戒壇之大御本尊は大石寺の宝物である。いくら顕正会が広宣流布をしたと言っても、大石寺が良しとしなければ本門戒壇之大御本尊は遷座しない。

顕正会の謎な主張として、本門戒壇は天母山に建立するというものがあるが、天母山なんて言ったのは
要法寺十三世広蔵院日辰師である。 似たような語句に天生原という用語があるが、これは住本寺(要法寺の前身)僧 左京阿闍梨日教師である。
そもそもからして、大石寺に戒壇堂という建物を建立するなんて言う教義は無い。 戒壇堂や戒壇院という用語は
左京阿闍梨日教師以降の文献にしか出てこない。
要法寺からの輸入である。

また御相伝には「三箇の秘法建立の勝地は富士本門寺本堂なり」とあり 戒壇堂なんてどこにも書いてない。
ちなみに御妙判に戒壇堂という単語は出てこない。 戒壇院という単語は一代五時図にあるがそれは鑑真和尚の説明
にて東大寺の戒壇院と書いてあるだけ。
日蓮大聖人は戒壇は建立すると言ったが戒壇堂なんてものは作らず、本堂が戒壇なんだと言われたのである。

それでもなお国立戒壇という妄言を尊び日蓮大聖人の本門戒壇を蔑ろにするのは謗法である。夢に囚われず
現実を見ましょう。

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