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第一章 我は名無しである(壱)

 子供のころから、「神様」という存在は壱弥にとって身近なものだった。曾祖父が近くの産土神に参拝することを日課としていて、いつも一緒について行っていたからだ。

「神様はわしらの目には見えんばってん、わしらのことをいつも見ておらっしゃるとぞ」

 それが曾祖父の口癖。
 誰も見ていないと思っても、神様が必ず見ている。それならば常にいい子でいなくては、と壱弥は子供ながらに思った。
 神様に顔向けできないようなことは、決してしない。この行動理念は、大人になったいまでも変わっていない。

「我は、神であるぞ」

 どう言葉を返すのが適切なのか、壱弥はしばらくの間、考えを巡らせた。
 早朝六時前。日課のジョギングをしている途中で、いつものように産土神社へ参拝しようとしたところ、この奇妙な子供が境内に佇んでいたのだ。
 プラチナブロンドの髪に深い緑の瞳という外見が、この田舎町にまったく不釣り合いではあるが、神様だと言われて納得するような要素はひとつもない。

 歳は五、六歳ぐらいだろうか。こんな時間に、子供がひとりでいること自体が不自然だ。しかしいまは真夏で、周囲はすでに明るい。早起きして家族や友達と遊んでいるということも十分に考えられる。

「ごめん。お兄ちゃんさ、最近の子の遊びはよく分からなくて。それ、なんていう漫画の遊び?」

 精一杯考えたうえでの返しだった。しかしその子供は、眉根を寄せて口をとがらせる。

「む。お主、我が神だと信じておらぬな? よかろう。我の力を見せてやろうぞ」

 そう言って壱弥に向けて右手をかざし、目を閉じる。
 ほんの一瞬、その手のひらが淡い光を放ったように見えた。

「ふーむ。名はカツキイチヤか。五月二十七日生まれ、現在二十歳でO型。東京の国立大学に在籍中か。この八女市多智花町で茶農家を営む香月家の長男として生まれ、六歳上の姉と三歳下の弟がおるようじゃな」

 壱弥が目を丸くすると、子供は得意満面の表情を浮かべた。
 しかし、狭い町なのだ。そのぐらいの情報は、誰が知っていてもおかしいことではない。

「……どうやら、まだ信じておらぬようじゃな。では、もっとお主のことを見てやろう」

 訝しむ壱弥を見て、子供は不満げな表情で再び右手をかざす。今度ははっきりと、手のひらが発光していた。

「六歳のときにラグビーをはじめたのじゃな。ほほぉ、高校では全国大会で準決勝まで勝ち進んだのであるか。爽やかイケメンの快速ウイングとして話題になり、熱狂的ファンまでついたようじゃのう」

 壱弥は、子供の手のひらをじっと見つめた。おもちゃなどを隠し持っている様子はない。本当に手のひらから光が出ている。そして子供の体が、ほんのわずかだが宙に浮いていることにも気がついた。

「ほう、初めて彼女ができたのは中二の秋か。相手は隣のクラスの女子であるな。なるほど、生徒会で話すようになって惚れられたか。なかなか隅に置けぬのう。さらにさかのぼると……幼稚園のときは、クラスでいちばんの美女であるマツリちゃんに恋文を送っておるな。だが自分の名前を書き忘れたのか。それを言い出せずにいたとは……あまずっぱいのう」
「ちょっと待て、なんでそれを……」

 幼稚園でのことは、誰にも話していないはずだ。しかし自分が気づいていないだけで、もしかすると母親などには知られていたのかもしれない。そうだとしても、なぜこの子供が知っているのか。
 整理しきれないことが一度に起きて、壱弥の頭は混乱していた。

「どうじゃ。我が神だと信用したか?」
「いや、どうじゃと言われても……」
「おお、いっちゃんやないか」

 神社の階段を上ってきた中年の男が声をかけてきた。

「あ、坂本のおいちゃん」
「そうかぁ、学生は夏休みたいね。いつ帰ってきたとね?」
「昨日の夕方だよ」
「そいで、こげん朝はようから走っとらすとね。さすがやねぇ」
「あぁ、うん。ジョギングは日課やけん」
「いつもここを参拝しとるし、若いのにえらかなぁ」

 子供を間に挟んで会話をしているが、坂本に子供のことを気にしているそぶりはない。小さすぎて見えていないのだろうか。

「それより、おいちゃん。こん子、知っとうね?」
「こん子?」
「ここ、おるやん」
「どこね?」
「俺の目の前に……」

 言いながらも、壱弥の頭には不安がよぎっていた。まさか、見えていないということが本当にあるのか。
 坂本は自分と壱弥の間を凝視して、首をかしげた。

「いっちゃん、寝ぼけとるっちゃないとね? 誰もおらんばい」

 冗談を言っている様子はない。はっきりと子供の姿が見えているのは、自分だけなのだ。背中がゾクリとした。

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