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部落史ノート(12) 『防長風土注進案と同和問題』(1)

書庫を整理していて偶然に見つけたのが、山口県文書館『防長風土注進案と同和問題』という小冊子である。発刊されたのは昭和58(1983)年、約40年前である。
1980~90年代、各地域で部落に関する新たな史料が発見され、それらをもとに歴史学・民俗学などの分野での研究が進展し、従来の部落史像が大きく覆り、いわゆる「部落史の見直し」の動きが活発化すると同時に、同和教育においても新しい研究成果を反映させた部落史学習が求められ始めた。その頃に買い求めた記憶がある。

あらためて読み直して、現在においても十分に通用する内容である。むしろ、現在こそ再読する必要を強く思う。
同和教育が人権教育に移行し、部落問題学習が人権学習のひとつに組み込まれ、多くの学校現場では他の人権問題を学習することで代替されている現状がある。まして部落史学習は社会科の歴史的分野の授業に一任されている。その結果、担当の社会科教師がどのような「課題意識」と「熱量」を持って授業を行うか、どのような教材を使い、どこまでの内容を教えるか、にかかっている。

かつては、部落問題に関係する団体や組織だけでなく、大学や研究機関の学者、宗教関係者、地方史の研究者などが、さらに学校教師を中心に組織された研究協議会と各学校の教師が、それぞれに協力・連携しながら研究・教育・啓発を行っていた。その際に、最も配慮すべきことであったにも関わらず、多くの問題を引き起こした。差別事象であり差別問題であった。

同和問題にかかわる史実と史料は「両刃の剣」である。差別を継承、助長、再生産していく凶器ともなれば、差別の撤廃、同和教育、部落解放を推進していく有力な武器ともなりうるのである。要はその使い方、扱い方如何である。利用する歴史研究者、地方史研究者の自覚と自戒、認識と姿勢に問題は帰着する。

本冊子の第一章に書かれている、この言葉は重い。
安易な発言が取り返しのつかない悲劇を生む。知らないからと許されるものではない。まして故意に賤称語を使って人を攻撃するなど以ての外だが、不勉強のままにマニュアルに沿った、ただ「差別はいけません」の注意を最後に付け足す授業を繰り返した結果、「穢多・非人」の言葉だけがひとり歩きを始める。「部落に生まれなくてよかった」という内心が部落と部落外の亀裂を広げていく。授業や啓発が分断を助長する。それゆえに<寝た子を起こすな>の論理が強まっていく。心ある教師は自責の念に悩む日々を過ごしていた。

本冊子が刊行された頃、同様の冊子や研究紀要、雑誌の特集が組まれた背景は、教育・啓発において部落問題を正しく理解し認識するため、そして間違った知識や認識から差別事象が生まれないようにするためであった。学校内外でも同和教育に関する研究会や研修会が多く開催された。

部落史・部落問題学習が、まるで潮が引くように、学校内外から消えて早20年以上が過ぎようとしている。気づく人間は少ないだろうが、危惧すべきは、あの頃の同和教育を「知らない」教師が大半であること、そして<寝た子を起こすな>のように語られない学校現場が今の現状であることだ。

差別事象が起こらないのが不思議なほどである。その理由に、同和教育を受けた世代が親となっていることで「部落差別の不当性」についてのある程度の認識が社会に拡がっていること、人々の中に人権意識と反差別の意識が当然のことと受けとめられていることなどが考えられる。しかし反面、「差別を継承、助長、再生産していく」動きもある。それは匿名性を悪用したインターネット上での差別事象である。人間の悪意がより陰湿に陰険に人を無差別に攻撃する。無関係であるにも関わらず、被差別部落を標的の一つにする。もしかしたら表面化していないだけで、昔よりも差別事象は増え続けているのかもしれない。

学校において部落史・部落問題学習が行われなくなって、部落問題に関する正しい知識や認識がないままに成長していく子どもたちに恐怖を覚えるのは私だけだろうか。


本冊子の第二章は「長州藩の被差別部落の存在形態」がわかりやすくまとめてある。

『防長風土注進案』は、各村・浦・町ごとに武士と百姓・町人身分のほか賤民身分の戸数・人口を記載するという方式を採っている。このため、この『注進案』から1840年代(天保末期)の長州藩(萩藩)の被差別部落の存在状況を把握することができる。「雑戸」の項が賤民身分の記載欄であり、そこに列挙されているのは「穢多」「茶筌」「宮番」「猿引」「非人」の五種類である。

続けて、この五種類の賤民身分についてまとめている。「穢多」は次のように説明されている。

「穢多」は賤民戸数の75.9%を占める。賤民身分の編成・支配の機軸にすえられており、賤民身分の中核的な存在である。賤民身分が通常「穢多・非人」と総称されてきているゆえんもそこにある。
その基本的な特質は、原皮生産(死牛馬処理)を役務として領主権力から身分的に課せられているところにある。死牛馬の無料取得と処理の特権を保障され、良質の皮革「特牛皮」をわずかに上納、負担する。「かわや」(ないし「かわた」)というのが「穢多」以前の呼称であり、長州藩では1660年前後(万治・寛文期)から「穢多」と公称されている。この「かわや役」とともに、「夜廻役」「牢番役」「長吏役」など末端的な下級の警吏、捕吏、刑吏の役務を課せられている。つまり「皮屋・長吏」役という二つの役務を連結賦課されていることでその身分は編成、拘束されている。このほか「門開き」や「千秋万歳」などの徘徊芸能にも従事、また「非人「宮番」を管轄する立場に立たされてもいる。

「茶筌」については「雑種賤民の代表的存在」であり、「その名称から茶筌(茶道具)に象徴される竹細工販売と芸能を生業にしていた」と説明している。

…竹細工製品である茶筌を領主に献上し、領主から「茶筌給」(屋敷地)、村々から「貰い米」を得ている。この奉仕-恩給の関係によってその徘徊が保証され、身分的に固定されている。

「宮番」について次のように説明している。

神社の掃除・火番に従事。境内にかぎらず村落次元の捕吏の役目も負わされている。…身分的特質としては、「平人」身分でこれに転属、充用されることが容認されている。「穢多」の管轄を受ける。なかには竹細工や遊芸など「茶筌」との類似面もあり…。

「猿引」は「いわゆる猿回し。萩城下の郊外に存在。文政年間(1790年代)に8軒とある」と説明され、「非人」については次のように説明している。

萩城下の「非人小屋」に所在し、「非人頭」の配下に属する。その所在場所から「浜非人」とも呼ばれる。天災飢饉時に大量に輩出する流民、浮浪者なども「非人」あるいは「野非人」と呼ばれるが、これらは身分的に固定されたものではない。「非人頭」のもとに「非人手下」として所属させられたものが賤民身分としての「非人」である。「穢多」と異なり身分上の入属と脱属があることと、生産活動への従事を禁じられているところに身分的特質がある。生計は城下を徘徊しての「貰い」による。

それぞれの賤民身分の特質を挙げながら、その特徴を簡単にわかりやすくまとめている。そして、藩権力がこれら賤民身分を掌握する必要から編成・整理したことについては、次のように説明する。

「穢多」から「非人」まで、ほとんどが徘徊と「貰い」の形式を生業に伴っている。それが特権・義無として領主権力から保障、強制されていることによって、賤民身分の基本は規定されている。
すなわち、近世前期から中期にかけては藩の側でも「かわた」とか「道の者」といった把え方をしなければ掌握しきれない状況を残している。これを斉一化すべく「茶筌」をも「穢多」と呼称しようとした意図や措置もある。一方、岩国領では「茶筌」を「道の者」と呼び、「穢多」をも含めて「道の者」と総称するところまで至っている。

こうした賤民身分の種類や呼称の違い、ことに領域による異同は、これがほかならぬ領主権力によって編成、整理されてきたことと、同時に領主権力だけでは規定しきれない状況と案件があったことを物語る。

次に小項目として「被差別部落の規模と機構」と題して、「穢多」集落の規模や支配機構について解説している。典型的な形態として「垣の内」と呼ばれるように周囲を垣根または土手で区画されている。これは他藩でも見られるが、支配機構では他藩に見られる「本村-支村(枝村)」の関係は見極められていないという。「頭取(穢多頭)」-「小頭」の関係は他藩にも見られる。

次の小項目「被差別部落の生業と生活水準」では、生業すなわち「家職」が「領主への奉納、上納を義務づけられた物品の製造に由来するものであり、それゆえに公認、保障された生業活動」であり、その見返りとして「その生業に不可欠の徘徊、取得の特権が保障され」たり、「かわや給」や「茶筌給」とかの免租地が公与されたとある。「家職」によっても支配関係・統治関係が成立していたのである。具体的には、「穢多」の皮革・草履の製造・販売、「茶筌」「宮番」の竹細工の製造販売が「家職」である。

賤民身分の「農業」については、小項目「被差別部落の土地所有の問題」と題して説明されている。「全面的とはいえないにしても農業に従事し、農地を保有している」が、部落によってその差は大きく、「本軒」や「亡土」の記載のある部落もあれば、食糧の4分の1を「貰米」に依存している部落もある。
一般農民が嫌う耕地放棄の「無主」田に農業進出したり、獲得したりしていることから、「被差別部落住民がそれだけ農地の絶対的な不足と欠乏におかれていた」というが、他藩も同様である。事実、岡山藩では「散田」「荒田」などを手に入れて農地とし年貢も納入してきたと『禁服訟歎難訴記』(「渋染一揆」の原典史料)に書かれている。

また、小項目「被差別部落人口の増加」「被差別部落の立地条件」から長州藩の賤民の生活基盤を見ることができる。
部落には人口抑制「間引き」がないのは、部落の人間が宗教心が厚いからだとか、雑業・皮革業に依拠する余地をもつからだとか、よく言われてきた。本冊子でも「生活水準の低位性にもかかわらず、人口増加を可能とさせた構造的な理由だと考えられる」と書かれているが、果たして一概にそう言えるのかどうか。

それに関係して部落の立地状態は、他藩と同様に、自然条件の不利な氾濫原や乱流地にあることから居住環境も劣悪であり、農業生産地としても悪い。
本冊子では「被差別部落は、その集落立地からして文字どおり差別的な条件と環境におかれていたのである」と、部落差別の元凶の一つとしている。


長州藩の部落史を研究していながら、「穢多・非人」は「賤民」ではないとか、部落の集落立地が悪くとも「司法警察」として重要地だから配置されたのだとか…言っている者がいる。当然、本冊子も、あるいは『防長風土注進案』そのものも入手し「精読」されているはずだが…、まして本冊子の著者は北川健氏なのだが…。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。