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排除と支配
「人権研究ふくおか」の機関誌『リベラシオン』138号の巻頭提言に掲載されている「同和教育運動の形骸化を考える」(堀内忠)は,現在の人権教育・同和教育の問題点を的確に指摘している。わずか5ページの提言ではあるが,人権教育へと移行される中で忘れ去られた同和教育の本質,そして現在の学校教育が,そして我々教師が失いつつある教育の理念を見事に糾している。
最近の論考の中で,ここまで端的に核心を突いた示唆は読んだことがない。
…いじめの形態を詳しく分析すると「シカトとパシリ」の二つの形態に分類することが出来る。シカトは「排除」であり,パシリは「支配」の行動である。学校でのいじめは子ども社会の中での差別そのものである。「いじめは差別ではない」という教師の中には,部落問題の解決の取り組みを通じて,人権問題の解決という展望を明らかにする教育実践が見えてこない。同和教育運動は部落差別をなくすためのみの教育実践だと歪曲化して考えると,「エタ・非人」発言は部落差別につながるから差別発言であるが,いじめは部落差別と関係ないから差別ではないという考えに立った理論になってしまう。
私は住民啓発の中で,「全ての人間が人間らしく生きる権利」を人権と定義し,人間の生存権や尊厳を「排除や支配」という手段で侵すことを差別であると定義して問題提起している。元ハンセン病患者の人権問題,被差別部落の人権問題,外国人の人権問題の多くは「排除」という手段の差別であり,女性の人権問題や子どもの人権問題は「支配」という手段での差別であると考えている。また,人間の生存権や尊厳を侵す行為は犯罪であり,一つの「排除や支配」の理由を黙認することは,新たな「排除や支配」の理由を生むことになり,何時,どのような理由で自分が「排除や支配」の対象になるかわからない。
上杉聰氏が部落差別の形態を,奴隷と対比させて奴隷は「パシリ」(支配)であり,穢多非人は「シカト」(排除)の差別であると説明していたことを思い出した。確かに,いじめも差別もその形態から考えれば,「支配と排除」である。
そのちがいは「する側」(差別者)の意識による。差別者が対象者をどう思うかによって決まる。「シカト」するか「パシリ」として使うかによって,対象者の位置が決まる。これが差別の一方的な構造である。
「シカト」と「パシリ」は形態上は明確な相違があるが,それは固定化しているようで必ずしもそうとはいえない。差別者の意識(必要性)によって変化する。
江戸時代の役務では,穢多・非人身分は明らかに「排除」(シカト)の差別を受けていながら,他方で番人などの治安維持やキヨメ役などの祭礼において「支配」(パシリ)の差別を受けてもいる。
現代においては「排除と支配」の差別構造は,「いじめ」でもわかるように,関係性が日常において緊密になっていることで,対象によってどちらかに限定されることは少なくなっている。経済基盤や経済関係,あるいは日常生活の場が共通となっていることがその背景にある。
差別の形態,差別構造の解明には「排除と支配」という分析・考察の視点は有効であると思う。何が差別であるかを見抜くために重要な視点である。
最近の教育現場では,人権学習は部落の歴史を教えることであると考えている教師が多いことを知った。何のために部落の歴史を教えるのかをもう一度考えてもらいたい。部落を「排除」することがおかしいことを歴史的に明らかにするための部落の歴史であって,歴史教育ではない。部落の歴史以外に部落を「排除」することが不当であることを教えることが出来る教材があるならば,部落の歴史を教える必要がないと思う。何にために,何を知ってもらいたいために,どのような人間になってもらいたいために,人権教育でこの教材を学習するのかをもう一度考えてもらいたい。「排除や支配」の体制が教育現場にある状況で,身分制度を知識として学ぶと,その知識は「排除や支配」の道具として使われることがある。人権学習の後に起こる「エタ・非人」発言がその典型である。また,先輩の実践した教材を無批判に利用して授業をし,「私は人権学習をしました」という教師にはなって欲しくない。
部落史を「知識」として教えることには昔から違和感を感じていた。学校はカリキュラムを重視するあまり,歴史的背景は社会科の歴史で教え,心情面は道徳の授業で考えさせるべきだと主張する教師は今も多い。特に社会科以外の教師に多い。
私は,この教科・領域制には反対である。学習指導要領に規制されて授業を構成すべきではないと思っている。教科の特性という面もあるが,学習指導要領を作成するための便宜上の分類のような気がする。生徒の「学び」からの発想ではない。
授業は料理と同じで,生徒がおいしく食べて血肉とすることが目的であり,洋食や和食という便宜上の分類にこだわるべきではない。洋食に和食のテイストや手法を取り入れてもよい。
社会科の歴史的分野や公民的分野で部落史や部落問題を扱う際に,道徳的な内容を加味して授業を構成すべきだと思っている。他教科の授業で人権学習の教材に取り組み,道徳や社会科の要素を加味してもよいと思っている。専門性にこだわらず,内容を充実させて目的を達成すべきである。
あらためて「目的」を明確にした人権教育の実践が求められている。既存の授業案や教材を踏襲するだけの授業は考えものだが,実践しないよりはいい。
だが,今までの取り組みや教材集が見直され,よりよいものとして受け継がれていない現状もある。単なる「マニュアル」ではいけないが,料理のレシピ本のような指導書は必要なのかもしれない。
この「提言」の趣旨には賛成するが,次の一文については無批判に賛同はできない。教育の本質という目的論としては同感であり,目指すべき教師の姿勢としてはそうあるべきと認識している。しかし,この論理展開には,多様な現実の姿,生徒や親の多様な考えや実態を軽視した単純に二元論化した発想がある。二三十年前の教育現場であれば,この論旨の前提となった現状が見られたであろうし,そのような教師もいたであろう。だが,現在の学校を取り巻く状況,親や生徒の質的な相違は大きいのだ。
子どもの学力の向上のために(授業が正常に成立するためにとの理由で),腐ったリンゴを取り除くような教師になって欲しくない。そして子どもの荒れを子どもや親の責任にしてしまうような教師になって欲しくないのである。いくら静かに授業が成立したとしても,荒れた子どもたちを排除して成立した授業は,教育の本質から外れた差別教育である。…教師の指導に従わない子どもは悪者なのだという姿勢で,親や子どもに対応する姿勢が教師の中にあるとするならば,子どもや親に対しての「支配」そのものであり,「人質論」が親の口から出てくる。この「人質論」が出てくる時は,親や子どもの共感の下での教育実践は出来ない。同和教育運動は今までの上から目線での教育に対して,教育は子どものためのものであることを実践の中で提起した運動であった。教師の「支配」の姿勢でのぞむ教育実践は差別教育そのものである。
失礼な言い方だが,この批判は外から見た一面的な認識であり,机上の域を出ない主張であると思う。
誤解のないように書いておくが,私はこの論旨も提言も否定しているものではない。目指すべき理想像であり,追究すべき教育実践の目的であることは,そのとおりである。
だが,生徒の荒れの要因も実態も多様化し,親の考えも生き様も多様である。「人質論」を逆手にとって,教師に無理難題を平然と要求する「モンスターペアレント」もいる。正義が通用しない価値観をもつ生徒や親もいる。公正や公平といった価値観よりも自己中心的な価値観を重視する生徒や親もいる。
不合理で理不尽な言動を繰り返し,周囲への迷惑を一切考えず好き放題を平然と行う生徒と,それを容認する親もいる。
【…教師の指導に従わない子どもは悪者なのだという姿勢…】を批判する前提条件を堀内氏はどのように考えているのだろうか。上記したように逸脱した行為と周囲への無謀な言動を繰り返す生徒は「悪者」ではないのだろうか。(「悪者」の定義もむずかしいが…)
「荒れ」を一面的な理解で解釈しているように思う。数十年前の教育現場を現在に投影して解釈しているとしか思えない。
私は,この一文を一方向からの主張であると批判しているのだ。
「荒れた子ども」によって「授業が正常に成立しない」ために,授業が遅れ,学力が定着できずにいる子どもはどうすればよいのか。きれい事で済まされない現実がある。荒れた学校にもまじめな生徒はたくさんいる。真剣に学習に取り組みたいと思い,進学に夢を抱いている生徒もいる。
荒れた学校では,生徒は塾で勉強するという,一方の現実をどう考えるのか。
自己矛盾を呈するかもしれないが,荒れた生徒をも魅了する授業を構築し,彼らが居心地のよさを感じる学校や学級を作り出すことが教師の使命ではある。その一方で,進路保障という面から学習内容を毎回次へと進めなければならない。基礎学力がまったく身についていない生徒にとって,日々の学習は苦行である。積み上げ学習である英語や数学では,なおさらだろう。何を話しているかもわからない教室で時間を過ごすことは忍耐の限界を超えてしまう。エスケープか別のことをして時間をやり過ごすしかない。
授業妨害をする生徒を「排除」することと,その子どもを見捨てず関わり続けることは二律背反ではなく,まったく別のことであり,両立させることができることである。
【…荒れた子どもたちを排除して成立した授業は,教育の本質から外れた差別教育である。…】との決めつけには,私は決して納得できない。なぜなら,「荒れた子ども」を無批判に擁護する立場でしかないからだ。これは「弱者を聖化する」論理と同じである。マイノリティであれば何事も許されるのか。ちがうと思う。
かつての被差別部落は,差別ゆえに学習の機会を奪われて言動が粗暴化し,無教養で自堕落な生活を余儀なくされたという実態があった。だから,彼らの粗暴さや粗雑さの背景にある部落差別と闘わなければならない。それが「被差別の立場に学ぶ」ことだと同和教育運動は始まった。
その当時の子どもたちと,現在の子どもたちや親を同じに見てはいけない。「荒れ」の実態も背景も要因も異なっている。多様化しているのだ。
「荒れる生徒」から生徒を守るのも教師なのだ。一時的にせよ,荒れた生徒を「排除」しなければ「正常な授業が成立」しない現実もあるのだ。それでも「差別教育」というのかと,私は問いたい。
「荒れた子ども」の心情を理解し,家庭環境や要因の解決に尽力することと,学校における正常な学習環境を守ることは,どちらも大切な教育活動であり,教育の本質である。
一面的な理想論で一方的に教師批判を展開するのは簡単である。現場を垣間見る程度の現状認識で,教育問題を論じるのは軽薄である。
まず「荒れている子ども」は「弱者」であるかどうかを考察してほしい。彼らによって暴行を受けたり,恐喝されたりする生徒は「弱者」ではないのか。彼らによって「シカト」の標的とされた生徒,彼らによって「パシリ」にさせられた生徒,その生徒は「弱者」ではないのか。
簡単に「差別教育」などと「差別」という表現を使ってほしくはない。
極論かもしれないが,昔ワルであったとかやんちゃであったとか公言しながら今の成功や立ち直りを誇示して教育問題に提言される方々がいる。
例えば,ヤンキー先生と称され,教師や教育委員を歴任し,今は国会議員となっている義家弘介氏であるが,一度彼の講演を聴いたが,言っていることは正論だと思うが,生徒の側に立つを強調しての教師批判に終始し,やんちゃ生徒の代弁者を「正しい」と勘違いしているような内容であった。彼の著書も図書室にあって読んだが,彼のバイタリティーと生徒への愛情は事実だろう。教師への批判においても的確な面もある。
だが,彼らを見て思うのは,彼がやんちゃをしていた時の先生や同級生に対して「迷惑をかけた」という謝罪や償いの気持ちはあるのだろうかという点が気になって仕方がない。私が読んだ限り,そのような文章はなかった。どの程度のやんちゃか問題行動か知らないが,居直るようなことではないはずだ。
それが教師の仕事だとか指導が悪いからだとか言われながら,殴られたり器物を破損されたり,いったいどれほどの教師が悔し涙を飲み込んでいるか。暴力をふるわれたり恐喝されたり,いったいどれだけの同級生たちが辛く悲しい思いをしただろう。
そのような現状が学校現場にはあるのだ。「荒れる子ども」がいる一方で,その子どもたちに「迷惑をかけられている子ども」もいるのだ。振り回される教師もいるのだ。
プロボクサーにも同じ人間がいる。他のスポーツ選手や有名人にもいる。彼らの成功を誹るつもりはない。だが,彼らによって辛い思いや嫌な体験をした人間もいるという事実を忘れてはならない。
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