新たな部落解放への展望 コミュニティ力
同和教育から人権教育に名称が変わるとともに、扱う主題が部落問題(同和問題)からさまざまな人権問題に拡がったことで、いつしか部落問題学習も学校現場から、企業や社会の啓発研修から姿を消していった。その是非は別にして、かつての「糾弾闘争」「解放学級」等々の活動を主導した世代から若者世代へと変わっていく中で「解放運動」そのものも大きく変化していったように思う。特に、ここ20年間ほどの変容は大きい。それは若者の新しい意識や思考、価値観や社会観が反映されたものである。当然、差別への怒りは今もあるし、さらに激しい。だが、部落差別への闘い方の多様性と方向性が大きく違ってきたように思える。
『大洪水の前に』『人新世の「資本論」』の著者斎藤幸平さんの『ぼくはウーバーで挫折し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』を読了した。毎日新聞に連載された「斎藤幸平の分岐点ニッポン」を書籍したもので、斎藤さんが現代のさまざまな社会問題の「現場」を実際に取材したり体験したりしたことをルポルタージュしたものである。詳しいことは直接に手に取ってもらいたい。
私が興味を持ったのは、第三章の「偏見を見直し公正な社会へ」にある「水平社創立100年 若い世代は今」が目に入ったからである。マルクス主義の立場に立つ経済思想学者である斎藤さんが「部落問題」の最前線に接して何を思ったかに興味が湧いた。
彼は「男性、東京出身、高学歴の東大准教授」「同和教育も受けておらず、その後も十分に学んでこなかった無知な私」と自分の立場を明確にした上で、「だが、『知らない』を言い訳に差別問題から目を背けることができるの、マジョリティの特権に他ならない。だから、まずは現場を見て部落差別の現在を学びたいと思った」と動機を語る。そして大阪府箕面市の北芝地区を訪ね、コミュニティスペース「芝樂」の「まちづくり」を取材する。
このような状況は大阪に限ったことではない。私の地元、岡山でも解放同盟の分断もあり弱体化はあっという間だった。財政支援の縮小と高齢化、若い世代の運動離れ(後継者不足や不在)などの要因が重なり、中には昔の面影さえ消えた地域も多い。あれほどに活況だった「渋染一揆資料館」でさえ忘れ去られる感が強い。
斎藤さんは、北芝が参考にしたという大阪市住吉区の浅香地区も訪ねている。私が視察に訪ねたのは30数年前のことで、隣保館を訪ね、地区の現状と解放運動の歴史について説明を聞いたことを覚えている。京都の崇仁・東九条を訪ねた翌日だったので、両者に共通する課題と今後の方向性について学ぶことができた。当時はまだ同和対策事業も継続していたし、解放運動にも勢いがあった。立派な施設や内部、ハード面での整備が進んでいることに驚いた。一方で、差別の厳しい現実、若者の地区離れと後継者問題など多くの課題も見た。
当時の私には、京都や大阪の「まちづくり」「地域再生」の取り組みと部落差別の解決が方法論として結びつかなかった。差別者と被差別者の垣根を「差別意識」としか見えていなかった。部落史を通した部落問題の正しい認識をもつことでしか解消できないと思っていた。部落ー部落外の交流があっても、認識を改めない限りは「表層的なつきあい(交流)」でしかないとまで思っていた。
「部落問題に対する正しい知識」が何よりも重要であり、それこそが「差別意識」を改め、部落問題を解決し、部落差別を解消する方法だと思ってきた。もちろん「正しい知識」からの「認識」は必要ではあるが、それだけでは不十分であるし、むしろ現実においては「実践的交流」の方がより重要であると思うようになってきた。
「排除」「排斥」「無関係」が差別の形態であるならば、その反対である「交流」「つながり「関係」を構築することで差別は解消される。単純で短絡的に見えるが、本質である。理論や知識は差別の根拠や理由に都合よく使われ、「他人事」「無関係」の意味づけに利用される。
「被差別の立場に立つ」と言ったら、それは部落外の子を「部落にすることだ」と的外れな非難を繰り返し投げつけてきた牧師がいたが、差別者ー被差別者の二分法(分割)に固執する限り、彼の論理では差別解消など永遠に無理だろう。
部落ー部落外、差別者ー被差別者などの「垣根」「壁」そのものを消し去るための「知識」と「実践」が必要だと考える。
「SNSで「批判」という名のレッテル貼りや誹謗中傷をただ垂れ流しているだけ」の人間には他者との「交流」の大切さがわからないのだろう。「批判」によって差別が解消するのなら楽なものだ。
部落史などの「知識」や部落認識の変換だけでは、現実の部落問題の解決はできない。「差別」を克服するためには「共事者」である自覚と「共存関係」を深めながら相互理解と相互扶助の「コミュニティ」を形成していくことである。当然、相互理解のためには部落史も部落問題の正しい理解も必要である。両輪が不可欠なのだと思う。