目的や大義のために他者の人権を無視しても構わないという論理が昔も今も罷り通っている。私が最も許せないことである。それも無自覚に、無責任に、躊躇すらなく平気であることが私には信じがたいことである。
「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」において、元ハンセン病患者(回復者)は、これは「人生被害」である、「人生を返せ」と訴えた。賠償額を1億円としたことを批判した言葉に、彼らは「1億円で、私の人生とあなたの人生を取り替えてくれますか」と応えた。
長島愛生園の精神科医をしていた神谷美恵子が、21歳のときに療養所を見学したときに創った詩がある。その有名な一節に「どうしてこの私ではなくてあなたが? あなたは代わってくださったのだ。」がある。この言葉は「本当の愛」であるとキリスト教的解釈で人びとに感動を与えている。しかし、私は必ずしも同意できない。私が無神論者であるからではない。宗教的な慰めや心の平安をもたらす宗教の効力を否定するものでもない。だが、先の「1億円で、私の人生とあなたの人生を取り替えてくれますか」の言葉と対比させて考えてみてほしい。
私は神谷に問いたい。光田健輔という「権力」の前では「宗教」は無力だったのか、と。
苛烈な患者作業、乏しい食糧と医薬品、狭隘な住居、横柄で横暴な職員の言動などを彼女は目にしていないのだろうか、患者からの訴え(相談)はなかったのだろうか。
そして、一度として、光田の<絶対隔離>を疑うこともなかったのか。
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各療養所自治会が編纂した「自治会誌」を読むとき、園長の無能さと無責任さを痛感するとともに、権威を笠に着て横暴さの限りを尽くした職員の姿に憤怒の感情を抑えることができない。軍国主義によって正当化された理不尽な軍隊生活の様相を療養所に見る。
特に名指しで批判されている2人を挙げておきたい。全生病院の歴史に悪名の高い「毛涯鴻」と栗生楽泉園の「加島正利」である。
『倶会一処』(多摩全生園患者自治会編)の「まえがき」に、「この年(1979年:昭和54年)を記念して患者自治会では、患者の手による70年史を編纂出版することを決めた」として、本書の趣旨と目的が明晰に書き記されている。抜粋して引用する。
少し長く引用したが、ハンセン病問題の核心と何を学ぶべきかを的確に言い表している。「事実」を「教材」として、同じ過ちを二度と繰り返さないように、何が「過誤」であるのか、「必要悪」として大義のために「犠牲」を顧みることもせずに「聖化」してきたことは許されるのか、歴史の中に「闇」として埋もれされてよいのか等々、我々が考えなければならないことは多い。
この『倶会一処』「第2章 人と習俗 2 毛涯鴻」より抜粋して「事実」を引用する。
続けて、数多い毛涯の「悪行」の例が書かれている。無断帰省しようとした青年が失敗し、監房に入れられた。「普通の知能ではないのだから」と、兄や周囲の者が同情して頼んだが、出してもらえず、「房内で首をくくって死んだ」。死体を兄にも見せずに納棺したという。これに憤った兄や入所者が集まって抗議大会を開き、光田と毛涯の責任を追及した。光田も窮し、にがりきっていたとある。
成田氏は毛涯と光田の関係を次のように書いている。
私は、光田の患者観が端的に表れていると思う。自分の意に従う患者とそうではない患者、つまり<絶対隔離>を甘受する人間とそうではない人間、この2分法が光田の判断基準であった。さらに、その根底には患者を「同じ人」と認識していない。「人」と「癩者」という明確な価値基準があったと考える。その患者観は、当時の社会認識を背景に、職員に反映されていたと考えられる。彼らは患者(入所者)を「監獄の中の囚人」程度にしか思っていなかった。
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成田氏が「光田を知らずして人間無視に徹していた最悪の人物」と表する「栗生楽泉園の加島正利」について、栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋-栗生楽泉園患者50年史』「加島正利」より抜粋して引用する。
栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』「第二章 抑圧の日々」および「第三章 人間回復へ」には、庶務課長霜崎清の傍若無人な園内支配と患者抑圧、さらに私腹を肥やすための不正と横領の数々(物品の横流し、患者の作業賃等のピンハネなど)が書かれている。
また、霜崎の手下として、患者に対する横暴な態度、理不尽な要求と強制労働、監禁所や「特別病室(重監房)」への強制収監を手段として患者を恫喝・暴行の限りを尽くした加島正利については、さまざまな出来事の記述の中に必ず名前が挙げられている。
医務課長の矢嶋良一は「手不足を理由に平気で看護師にメスを握らせ、ために患者が死に追いやられる事例が絶えず」、「特別病室」収監者を患者の扱いからはずして診療を施さずに次々と死亡させたことが記述されている。
他にも、栗生保育所の保母菅野コト子の児童虐待問題は、悲惨の極みだった。少し引用しておく。
これは多くの患者が傍聴するなか、「人権闘争」のきっかけをつくった日本共産党が来賓として出席した、患者代表の「生活擁護・要求貫徹実行委員会」と「施設当局との直接交渉」の席上での証言である。「人権闘争」に関しては『風雪の紋』に詳細が書かれているので、ここでは書かないが、読むほどに職員の横暴さと傲慢さに怒りが沸いてくる。
加島に関して言えば、この席上で追及されても、『上毛新聞』に次のように述べて開き直る始末である。
患者による粘り強い交渉は続き、共産党を中心とする国会議員や県や町の議員も巻き込む大きな動きとなり、国会での政府追及にまで発展し、厚生省からの調査団が派遣され、楽泉園の実情が白日の下に明らかとなり、患者側の「要求書」に基づいた解決がある程度ではあるが実施されるに至った。施設側当事者の結果のみ引用しておく。
なお、医務課長の矢嶋良一であるが、外科医の不足から追放を免れ、後に玉村のあとに園長に就任している。「特別病室」を解体したのは彼である。証拠隠滅を図ったのか、それとも自らの怠惰の結果、多くの患者を死亡させた痕跡を消し去りたかったのか。
光田健輔は「人権闘争」および「特別病室」の廃止について、次のように書いている。
なんと身勝手な自己正当化なのだろうか。光田は上記した霜崎清や加島正利の不正行為や患者虐待の事実を知った上で書いているのだろうか。古見の見て見ぬ振り、職員を監督すらできない無能な園長であることを知っていたのだろうか。(私は彼の年譜しか知らないので、確かなことは言えないが)「特別病室」そのものを一度でも見たことがあるか。
光田は「不良患者」というが、自分の意に沿わぬ患者や待遇改善を訴えた患者を「不良患者」にしているだけであり、光田が「草津送り」を命じた患者が果たして犯罪を犯したり、所内の「善良な患者」の害になるような患者であったかどうか、甚だ疑問である。光田の価値観(患者観)や判断基準に客観性がないことが明らかである。彼には「人権意識」もなければ、「人権」に関する知識も認識もお粗末な程度であろう。この文章に光田の本質がよく表れている。
光田は、上記の文章に続けて、次のような一文を書いている。
どの口が言うのか、と思わずにはいられない。このとおりであれば、光田は決して「心あるもの」ではない。古見も霜崎も加島、菅野もである。自分勝手な都合のよい「同情」であり、「感謝」など微塵も持ちはしていなかっただろう。
成田氏は「毛涯鴻」の傍若無人な暴言と暴力、「特別病室」の残虐性を脅しの道具とした「加島正利」に言及した後、次のように書いている。
私がなぜハンセン病問題にこだわり続けるか。それは国家の責任で安易に片付けたくないからである。さりとて、時代の責任にもしたくはない。光田健輔個人の責任に還元して終わる気もない。私が追及しているのは、光田健輔の人間性や認識に原因を求めるのではなく、誰にでも「ある」であろう、思い込みや過誤、頑迷さ、自己正当化、自己顕示欲などがどのように「人権問題」を引き起こすに至るかをハンセン病問題を取りまく人々を考察することで明らかすることだからである。