光田健輔論(8) 権力と人権(1)
「癩予防ニ関スル件」の制定前後、光田と内務省による絶対隔離政策が進行していく中で、それに対する批判もしくは反論はなかったのだろうか。その間の動きについて、成田稔氏は『日本の癩対策から何を学ぶか』において詳しく論じている。成田氏の考察をもとに、私見をまとめておきたい。それは<権力と人権の対立>とも言える。
まず最初に、光田はいかにして「癩対策の第一人者」と自負し、日本のハンセン病対策を主導することができたか、これに関して成田稔氏は『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』の中で「光田は癩の権威か」「光田を支えた権力構造」の項で、詳細に検証した上で手厳しく批判している。
光田が「癩の権威」として登場してくる当時(ハンセン病対策が行われる以前)の社会状況(一般大衆がハンセン病患者をどのように見ていたか)を端的に言い表している。成田氏の「無知」という表現は「知らないこと」の意味であり、「知らないこと」の恐ろしさを伝えたいのである。「知らない」人間が「知っているであろうと思われる」人間の言葉に、どれほどまちがった認識と判断を委ねてしまい、そのためにどれほど多くの悲劇が繰り返されてきただろう。「権威」を与えられた(認められた、支持された)と錯覚した人間が、自らを「権力者」と過信してしまう愚かさを歴史が証明している。光田もその一人である。
成田氏は、「癩予防ニ関スル件」の制定(1902年)に「最も強い圧力になったのは癩予防相談会の存在ではなく、泰斗北里(柴三郎)の無言の存在だったと考えたほうが当たっている」とした上で、回春病院のハンナ・リデルが経営難の打開を光田に相談し、それを光田が渋沢栄一に橋渡ししたことで、銀行倶楽部での癩予防相談会につながった経緯から「癩対策の幕開けを担うような自負を持」ち、さらに当日の自分の招聘講演が『毎日新聞』に掲載されたことなどから「日本の癩対策の第一人者のような自信を深めた」ことを「自分勝手な結論」と批判している。
確かに光田の回想録などを読むと、若き日より相当の「野心家」であり、上昇志向(立身出世)の強い人物であることがわかる。明治期の家父長制あるいは家制度、戸主の強権を体現していると言ってもよいだろう。その考えをそのまま絶対隔離下の療養所運営に「大家族主義」として持ち込んだのである。彼の問題は、戦後になり、新しい民法になっても、旧来通りに運営しようとした頑迷さである。「家長」であることで「権威者」「権力者」であり続けたいと思っていたのかもしれない。
成田氏は、この光田の錯誤を「光田は病理組織学の癩の権威かもしれないが、癩を病む人への対応の権威では決してない」と断ずる。
成田氏は、光田が「癩の権威」として権力をもっていく過程で、光田を支えた三人の人物と光田の関わりを重視する。光田の「後ろ盾」となった人物の責任も問われなければならない。
渋沢栄一の略歴ならびに功績は今更述べるまでもないだろう。しかし、彼がハンセン病問題や光田健輔と関わり、光田を盲信した結果、絶対隔離政策の推進に一役買うことになった経緯は忘れてはならない。
光田健輔が東京市養育院に職を得たことが渋沢栄一との出会いであった。光田の回想録『回春病室』によれば、一人のハンセン病に罹った少年を渋沢院長に見せて伝染の話をしたことで、渋沢は「はじめてライが伝染病であることを知って驚かれた」という。そのときに、次のような話をされたとある。
渋沢栄一の母お栄には、生まれつき慈悲深く、人が困っているのを黙ってみていられない性質で、近所に年上の女性のハンセン病患者がいたが、人に忌み嫌われても彼女は普通に接し、よく物を与えたり、お礼にもらったボタ餅なども平気で食べたり、万病に効くという井戸水で沸かした湯に入浴していたときにその女性の背中を流してやったりという逸話が残っている。渋沢は母親の姿を見て育ち、その慈悲の心を受け継いでいるからこそ社会事業に身命を賭して関わり続けたのであろう。
そのような渋沢だからこそ、光田に献身的な医師の姿を投影してしまったのだろう。成田氏はそれを渋沢の勘違いだと言う。
私は、人間のもつ二面性を痛感する。渋沢だけでなく光田にも「救癩」の人一倍強い気持ちはあっただろうし、それこそ人が(同じ医者でさえ)嫌がり忌避するハンセン病患者に自ら歩み寄り、救いの手を差し伸べた光田に慈愛の心はあったであろう。だからこそ、渋沢も光田の熱弁に真意を感じ取り、賛同と協力を行ったのだろう。私は光田を「慈善」を「偽善」とは思わない。もしそうであれば、渋沢は見抜いていただろう。
では、何が光田を<絶対隔離>に固執させたのか。理由はいろいろと考えられるが、彼の自負心と頑迷さ、権威への固執が根底あったと思う。光田が周囲に持ち上げられて「権威者」(第一人者)となったと思い込んだ「勘違い」と「自己満足」が他者の意見を聞き入れなくしてしまったのだろう。
「癩の根絶」という至上命題に対して完全な答を考えたとき、感染源となる癩菌の保有者である患者を一人残らず隔離し、一歩も外に出さない、逃走させない、子孫を根絶やしにすることで、癩菌の存在を消滅させる。これが光田の導き出した解答であった。それは、患者を人間とは見なさない、<駆除>の論理である。ヒトラーの<ホロコースト>と同じ論理である。
埴谷雄高は「目的は手段を浄化しうるか」(『内ゲバの論理』所収)の中で、<目的は手段を正当化する Der Zweck heiligt die Mittel>という命題について論究している。埴谷はこの見解を「政治の手段」であるとし、相対立する見解である「目的は手段を正当化せず」を「ヒューマニズムの手段」と呼んでいる。
以前にも書いたが、光田の論理、国家の論理は「目的は手段を正当化する」である。だからこそ、私は言いたいのだ。決して目的は手段を正当化も浄化もしない(できない)、と。
同様のことを成田氏も書いている。
手厳しくも的を射た考察である。光田の回想録と自治会誌に綴られた患者の辛酸の数々を対比させながら読めば、光田の独善性は明らかである。
光田を支えたもう一人の人物、安達健臧について成田は次のように書いている。
その時の話を安達は次のように語っている。成田氏の著書より引用する。
安達は大正から昭和初期にかけて活躍した政党政治家であり、「選挙の神様」と評された人物である。1929年当時は、民政党単独の浜口雄幸内閣で、内務大臣に就任していた。財界の大御所であり、社会事業家としても尊敬を集めていた人望の厚い渋沢の熱意に、安達は強く心を動かされたことは想像に難しくない。それは渋沢を通じて光田の方針を安達が鵜呑みにしてしまうことになる。事実、以後の癩対策の施策、癩予防法の改正、癩予防協会の設立などの行政指針は、「光田の要請を受け入れた渋沢の建言と安達の施政によって絶対隔離の国策化を明確にすることになった」(成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』)
私はここに光田の大きな勘違いと過剰な自惚れが生まれたと考えている。渋沢というコネクションを上手く使い、安達や同郷の政治家山根正次、さらに内務省官僚などに取り入り、人脈を拡大させていくうちに、ハンセン病の専門医として自負心と、周囲からの賞賛を自らの実力と勘違いした慢心が彼を狷介な人間にしていったのだ。そして彼はそれが「驕り」でしかないことにさえ気づかない。
成田氏は、光田と渋沢・安達の違いを明らかにする。
光田の<パフォーマンス>について、次のような逸話がある。
内務省衛生局長であった高野六郎の回想である。彼は東京大学医学部で土肥慶蔵に学び、北里研究所で北里柴三郎の下で副部長にまでなり、内務省衛生局予防課長、厚生省予防衛生局長を歴任し、本妙寺癩部落や草津湯ノ沢部落の解体に関わった人物であり、療養所運営に強い権限を持っていた。その公衆衛生専攻の高野が次のように光田の思い出を書いている。
成田氏は「癩菌恐怖症ともいってよい光田の、医療者や患者を引き付けるためのいかにもわざとらしい仕種が何か疎ましい」と痛烈に断じているが、確かに光田にはこのような姑息さはあった。
繰り返すが、私は光田の人格や人間性を批判することを主眼に置いてはいない。日本におけるハンセン病対策の誤りを、単に国策の失敗として国の責任を問うのではなく、そのまちがいに加担した人間がなぜ気づくことができなかったのか、90年の長きにわたり代々の後継者たちが見直すこともできず流されて(踏襲して)しまったのかを明らかにしたい。なぜ光田のつくりあげた<絶対隔離>に伴う「強制作業」「断種」「懲戒」などを黙認したのか、光田の提言や説明を盲信してしまったのか、それらを明らかにしたい。
死んだ人間を鞭打つことの無意味さはわかっているが、それでも光田と同じような人間は現れ続け、その人間を支えようとする渋沢のようなお人好しや高野のような権威に盲従する人間も現れてくるだろう。現にロシアのプーチンや中国の習近平、北朝鮮の金正恩、ハマスのようなテロ集団がいるではないか。私は、テレビで見る彼らよりも、その傍にいる人間たちの緊張感をひしひしと感じて戦慄を覚える。