- たかが部落史,されど部落史 -
部落史と部落問題は両輪のように考えている。部落史を学んだから部落問題が解決するとは考えていない。部落問題を学んだから部落史は学ぶ必要がないとも考えていない。
<まちがった歴史を糾す,真実の歴史を学ぶべきだ>という意見には賛成であるし,当然のことだと思う。しかし,部落史の研究が進み,今までとは異なる部落史像が明らかになったとしても,それだけで現在の部落問題が解消するとは思えない。人間の心理はそれほどに単純なものではない。複雑に絡み合ったしがらみを解きほぐしながら,すべての人間の平等性と差別や人権侵害の不当性を改めていく日々の実践が必要である。
最も大切なことは,単に「知識」として部落史を学んでも,それを生かして,自らの生き方・あり方・言動を糾していくことをしなければ何の意味もない。差別は「昔」にあったのではなく,「今ここ」にあるのだから。まして部落差別の解消を願って部落史を研究すると標榜しながら,他者を愚弄したり,虚偽を捏ち上げて非難したり,誹謗中傷を繰り返すなど論外である
「歴史にそれほどの力はないよ」と言われたことがある。同和教育において,部落史学習は重要な位置を占めてはいるが,部落史を学んだから部落差別が解消されるようなものではない。
部落史学習は手段(方法)の一つでしかない。いくら部落史を語っても,それを生かしていく場(学校・子ども会・青年会など)での実践がなければ,何の力にもならない。また,部落史を学ぶ者が部落差別の解消を意識していなければ,それは単に「知識」でしかない。
【たかが部落史,されど部落史】と思う。「部落史を学ぶのではなく,部落史から何を学びとって生きるか」だと思う。
部落差別を下らないと笑い飛ばすためには「力」が必要である。その一つとして部落史が役立つことができると信じたい。そして,部落史学習の「場と認識」を通して,人と人がつながっていくことが大切なのではないだろうか。さまざまな思いを語り合うこと,お互いに学習し合うこと,その出会いを通して人とつながっていくことが「力」を生むのだと思う。
私が最近考えていたことと同じことを,石瀧豊美氏が福岡県同教の機関誌『ウィンズ』に「渋染一揆」を例に自説を述べているので紹介しておきたい。
…よく「厳しい差別」と言われるのですが,差別には「厳しい差別(=絶対的)」と「それほど厳しくない差別(=総体的)」とがあったのではないか,と私は思っているのです。そして,「下駄」や「傘」の問題は「それほど厳しくない差別」だからがまんできる,「衣類」の強制は「厳しい差別」だからがまんできない,というような区別が働いている,と思うのです。そうでなければ,嘆願書がおふれ書きのすべての項目を否定するのでなく,<無紋・渋染/藍染>だけに反対した理由がわかりません。
…百姓身分の前では雨の日でも下駄をはかないという強制そのものは,身分という観念に内在するものとして,認めることができたのでしょう。
…しかし,「えた」身分固有の服装という観念はそれまでなかったので,そのことは新たな差別の強制として,何としても認めることができなかったのではないか,と思うのです。
「部落史の見直し」とは我々の固定概念を崩すことであり,我々にものの見方・考え方に新しい視点をあたえてくれるものである。その視点が我々の生き方やあり方を見つめ直させてくれる。このことが部落史学習の大切な役割ではないだろうか。
先ほどの引用文においても,従来の我々の認識は,「厳しい差別」「厳しい身分制度」と画一的なものであったように思う。その結果,生徒の認識も同様のものでしかなく,「かわいそう」という同情しか生まれなかった。
個々の歴史事象の意味を検証することで,「差別とは何であったか」「被差別身分とはどのような社会的立場であったのか」等々の概念を再認識していく作業が求められているように思う。
同様のことを,遙洋子さんのエッセイ『遙かなるフェミニズム』から感じた。男性と女性の言い分を両極端に描いていておもしろかった。
しかし両者に共通するのは「自己中心」と「自分勝手」である。自分の勝手さをカムフラジュする理屈を正当化する方便を駆使しているだけのような気がする。歩み寄るとか両者が共存する道を探る努力はそこにはない。まさに画一的な見方である。多面的な見方はない。
「相手のために」という感覚のない人間が他者とつながろうとするところに無理がある。「自分のためにしか」生きられない人間は,自分を尺度に,自分にとって必要かつ有意義と感じられる人間とのみつながろうとする。自分のために。自分が他者によく見てもらいたいために八方美人を演じる。
同和教育においても部落史学習においても,利害とか優位性とか傲慢とかとは別次元で「相手のために」すること(してあげること)が「相手のよろこび」になる「思いやり」が必要だと最近改めて感じている。
自己中心的な生き方しかできない人間が,どれだけ着飾って表面的に献身さを装っても,いつか本質が見破られるし,長続きはしない。同和教育は自分自身のためであるとともに相手のためでもあると感じられない人間は,すべきではないと思う。悲劇の前に遠ざかるべきである。
厳しく極端な考えであると思われるかもしれないけど,よく考えてほしい。程度の差こそあれ,みんな心のどこかに,自分とともに相手を思う気持ちがあるはずだ。それを純粋に認められるかどうかである。私が言いたいのは,もっと人間として人間らしくありたいと思うだけだ。
話が横道に逸れたけど,いろんな見方や考え方があって,ものごとの本質が見えてくるし,いろんな生き方やあり方があって,人と人のつながりに深さが生まれることを教えてくれるのが同和教育であり,また逆に,自分しか愛せない人間に他者を受け容れて共に歩むことはできない,ということを教えてくれるのも同和教育だと言いたい。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。