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教科書至上主義の弊害

教員向けの情報誌『社会科navi』(日本文教出版)に,藤井譲治氏の「ようこそ!歴史史料の世界へ」が連載されている。少し古い号(2012  vol.2)では「慶安御触書」が取り上げられている。

「慶安御触書」は,2006年度版から帝国書院・教育出版などほとんどの教科書から姿を消し,大坂書籍(日本文教出版)では「百姓の御触書」,東京書籍では「百姓の生活心得」と改訂され「幕府が1949年に出したと伝えられる32条の触書」と注記している。

このように,もはや「慶安御触書」は「1649年に幕府が出した法令」とは認められなくなり,教科書から姿を消すか,注記されて記述されるようになったが,その経緯と理由を藤井氏は次のように簡潔にまとめている。

…この「慶安御触書」は,八代将軍吉宗が編纂させた幕府の法令集『御触書寛保集成』(1744年完成)にも,江戸時代前期の幕府法令集『御当家令条』にも,さらに当時の幕府法令を藩や村で書き留めた触留などにも見いだすことはできない。一方,「慶安御触書」の名でこの触書が姿をみせるのは1830年美濃岩村藩で版行された時のことであり,また1843年に完成する幕府の正史『徳川実紀』には「慶安御触書」の名はないものの当該触書が引かれ,典拠として「条令拾遺」が示されている。
…1999年に山本英二氏が『慶安御触書成立試論』(日本エディタースクール出版部)を上梓することでほぼ結論をえた。その主要な点を以下にあげよう。
①いわゆる「慶安御触書」は1697年に甲府藩が出した「百姓身持之覚書」を引き継いだもので,幕府の法令ではなく,1649年に出されたものでもない。
②「慶安御触書」は,『徳川実紀』の編纂を主宰した大学頭林述斎が,生家である美濃岩村藩を指導し,1830年に岩村藩で刊行させたもので,名はその時のものである。さらにこの時,この触書は「公儀」=幕府の出したものとされた。
③『徳川実紀』が,出典としてあげる「条令拾遺」は,『徳川実紀』の編纂過程で収集されたものであり,そこでの名は「百姓身持之覚書」である。
④岩村藩で刊行された「慶安御触書」は,その後,多くの藩で1649年に出された幕府法令として扱われ,領内の農政に利用された。
(藤井譲治 前掲)

このように教科書記述もまた歴史研究の成果によって大きく変化してきている。このことは歴史研究の進展によるものであり当然のことではあるのだが,教科書によって学習する現在の教育制度において,教科書至上主義の弊害という問題を露呈した実例の一つである。

長い間,「慶安御触書」は江戸時代の農民の生活実態,幕府による農民支配,さらには年貢収奪の根拠として,拡大解釈・誇張されながら教育現場で使われ続けてきた。貧しい生活・厳しい支配・冷酷な年貢収奪の証拠とされ,その結果,貧農史観が成立していった。そして,生徒の江戸時代及び江戸時代の農民,何より賤民のイメージは「暗黒の時代」「悲惨な生活」が形成されていくことになった。

ある小学校教師が「稗・粟・雑穀を食べ」の一文を基に,米をすべて年貢に差し出して「稗・粟」しか食べられないほど厳しい支配を受けて貧しい生活を余儀なくされている農民生活を実感的に教えるため,「稗・粟」に近い「鳥の餌」を買い求め,水に溶いてレンジでチンさせて食べさせようとした授業があったと聞いたことがある。

同様に,「渋染一揆」においても,農民の厳しい生活と厳しい農民支配を理解させるため「慶安御触書」がよく引用されてきた。

先ほどの小学校教師は,さらに「農民がこれほど悲惨な生活をさせられていたのなら,さらに低い身分の人々はどんな生活をさせられていただろう」と続けたという。この授業を受けた生徒がどのようなイメージを農民や賤民に対して抱いたかは想像に難しくはないだろう。

教科書を唯一絶対化させているのは,教師の責任でもあるが,入試制度という足枷に縛られた現状では致し方ない側面もある。ただ,教科書を盲信する危惧だけは発信し続けたいと思っている。

「教科書を教えるのではなく,教科書で教える」のが教師の立場であると私は思っている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。