「明六一揆」論(1):慰霊碑
「美作騒擾」とも「美作血税一揆」とも呼ばれる岡山県北部で起こった「解放令反対一揆」を考察する際に欠かせない重要史料がこの慰霊碑に刻まれた碑文である。
碑を建てた宰務正視氏の家は,津川原部落で代々の長を務めてきた。この部落が,明治六年に襲われたとき,彼は満六歳。隣村の知人宅で長持ちの中に隠されていて,生き残ることができた。
この一揆により,父と長男・二男の三人が,母親みえの眼前で惨殺されている。部落一の地主であった立派な屋敷も焼き払われている。
津川原部落では彼らを含めて18名が殺されている。
正視氏がこの慰霊碑を建立したのは,1922(大正11)年,水平社が設立されて3か月後のことである。その年の5月29日は父と兄たちの五十回忌であった。慰霊碑に刻まれた旧字体で書かれた漢詩文は,長年の風雨や厳しい冬の風雪によって削られて文字の判読がしにくい。(私も判読不能の文字が多く,諦めるしかなかった)
上杉氏の『部落を襲った一揆』にも転載されている好並隆司さんによる現代語訳によって内容を知ることができる。
明治六年,私の屋敷は漠然とした焼野原になり,父と母は凶徒の刃で歿くなった。
その無念さをよく言葉でいい表せず,天に叫び,地に泣き伏して哀泣の声をあげ,(悲しみつづけて),ついに血を吐くに至った。
しかし,当時私たちは年が若く,為すすべもなく,ただ役人の手を空しく待つばかりであった。
ようやく凶徒を罰したとはいえ,亡くなった者の心に十分に報いることができたとは思わない。
今ここに大正十一年となり,五十回忌をむかえる。
墓に来たって過ぎ去った昔の事件を思うと,(死んでいった者への)悲しみをどこに措いてよいかわからない。
流れる涙を墨汁にかえて,七律一首を詠み,霊前に捧げよう。
昔のことははるかに遠ざかり,屋敷の跡も荒れ果てた
ふりかえれば十七年が経っている
恨みは旧い出来事とともに蘇って堪えることがない
愁いは浮雲とともにいよいよ長く留まっている
線香の煙は数本の糸筋となって立ち昇り,寂しさに添える
一対の斑鳩の哀しむ声が,はてしない蒼空をつらぬく
ため息をついて涙をのみ,私はただ空しくたたずむばかり
寒さの中で墓碑銘を読み終えると,夕陽はもう沈もうとしている
漢詩文で書かれた碑文は,判読しにくい文字も多く,「原文」もないだろうと諦めていた。
地元にある作陽高校の妹尾先生が碑文を書き写されたもののコピーをいただいて大切に保管しているのが,これが唯一の「原文」と思っていた。
以前より,正視氏に関しては「漢文」を学び漢詩集も出版していると聞いていたが,現物を手に取ることはできていない。また,彼について書かれた人物辞典のようなものがあるとも聞いていたが,探しても見つからなかった。
『部落を襲った一揆』に,正視氏を紹介している本の書名が書かれていたので,古書店にて,その本が収録されている選集を入手することができた。その本は,寺田蘇人『部落の人豪』である。私は,この本が収録されている『部落問題文芸・作品選集』(46巻)を手に入れた。早々に本を開き,正視氏に関する部分を読み始めたところで,この碑文の「原文」であろう漢詩文を目にすることができた。ここに転載しておく。
謁父母墓
明治六年我邸宅漠然歸鳥有,而父母則歿凶徒之刃,遺憾非口頭之所得而盡,龥天哭地歔欷哀慟,繼以吐血,然余等時齢尚淺,不知其所為空待官衙之手,雖慚誅之,未可謂十分報之,回顧茲明治二十二年則其拾七回忌也,上墓而憶往事,愁膓所措,取數行之涙而代墨,賦七律一首,還而呈靈牌,藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多,
往事茫々跡亦荒,回顧十有七星霜,恨憑舊蘇生無己,愁共浮雲凝愈長,數縷香烟添寂寞,一雙哀鷓哭蒼茫,喟然呑涙人空立,讀盡寒碑送夕陽
藤澤南岳曰情語動人
宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下
この本により判明したことがある。まず,『部落の人豪』が刊行されたのは,大正9年であり,慰霊碑の建立より以前のことである。
同書によると,碑文の「原文」は,正視が明治28年に出版した彼の漢詩集『溶月堂詩鈔』に所収されており,それを引用転載したものである。
漢詩集に引用転載された「原文」と,妹尾先生の書写した「碑文」を対比させると,まったく同一の文であることがわかった。
違う箇所の一つは,七律一首の「回顧十有七有星霜」(詩集)と「回顧五十有星霜」(碑文)というように,建立に際して年月を合わせているところである。もう一つは,碑文にはない「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」である。
このことから,正視が無念の思いを漢詩に表したのは,明治22年の十七回忌のときであり,その詩を所収した漢詩集を刊行したのが,明治28年である。そして,この漢詩を慰霊碑に刻み建立したのが,大正11年である。
明治6(1873)年の騒擾のとき,正視は満六歳であった。慶応3(1867年)2月に京都に生まれたと『部落の人豪』には書かれている。彼がこの漢詩を書き表したのは,十七回忌の時だとすれば,23歳である。慰霊碑建立のときは,56歳であるから,33年間忘れることなく,無念の思いは彼の胸中にあったのだろう。いや,1936年に71歳で亡くなるまで,終生かわることはなかっただろう。
「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」の一文であるが,藤澤南岳は正視と深く親交のあった大阪の儒学者である。
藤沢南岳(ふじさわ なんがく)
天保13年9月9日(1842年10月12日) - 1920年2月2日)
讃岐生まれ。藤沢東畡の長男。名は恒,字は君成,通称は恒太郎。号は醒狂,香翁など。大坂の泊園書院を父から継承し,数千人の門人を擁した。高松藩に仕え,左幕派だった藩論を一夜で朝廷派へと変換した。戊辰戦争後,藩の保全に尽力,藩学講道館にて督学,1887年大成教会を興した。
長男は衆議院議員となった藤沢元造(黄鵠),次男は関西大学初の名誉教授となった藤沢章二郎(黄坡)。小説家の藤沢桓夫は章二郎の長男。
「通天閣」や「寒霞渓」の命名者である。
Wikipedia より
「藤澤南岳曰悲惨在眼不堪多」を現代語に訳すならば,「藤澤南岳が言うには,悲惨(な情景)が眼に浮かび,(これ以上)幾度も読むことには堪えられない」となるだろうか。
七律一首の後にも,「藤澤南岳曰情語動人,宮崎柳渓曰引文而後此詩則哀痛湊涙涔々然下」の文が続いている。つまり,この無念の「漢詩」を「藤澤南岳」や「宮崎柳渓」に見てもらっているということだろう。そして,信頼する友人からの言葉を書き加えたのだろう。自らの心情を同憂してくれた友への感謝とともに決して忘れられぬ悲惨な事実を,自著を読んでくれる人々に伝えたかったのだろう。
『部落問題文芸・作品選集』の製版が悪く,旧字でもあり,活字がつぶれて読みにくいため,上記の漢詩文が正確であるかどうか不安である。また,妹尾先生の書写においても,私には到底無理と思える判読作業である以上,絶対とも言い難い。さらに,好並先生の現代語訳も,正視の胸中を感じての意訳であり,また先生の没後であるため,先生が底本とした「原文」の所在を聞くこともできない。
上記の3つを比較したとき,いくつかの「漢字」が異なっている。また,原文と訳文でやや異なった解釈となっている部分もある。たとえば,好並氏による上記の訳文中の( )は「原文」にはない意訳である。
今ここに,宰務正視氏の痛恨に思いを馳せながら,長年の夢であった「解放令反対一揆」研究,特に「明六一揆」に関する考察を始めたいと思う。
この漢詩文を読むたび,私の心に,この惨劇が時空を超えて蘇ってくる。具体的な史実は何も語られていない。自分が実際に直面した事実とそのときの心情だけが淡々と語られている。だが,この短い漢詩文の一字一句の中に,すべてが凝縮されている。関連史料を読み,上杉氏の『部落を襲った一揆』を読むとき,なぜ正視が自分の心情のみを短い漢詩に綴ったのかがよくわかる。