マイクロアグレッション
昨日(2024/4/09)の読売新聞「編集手帳」に、静岡県の川勝知事にふれて、次のように書かれていた。抜粋して転載する。
多くの人びとには聞き慣れない言葉だが、人権思想が広く社会に浸透し、さまざまな人権に配慮することが当然の時代になり、人権意識や人権感覚の必要性がさらに求められるようになった現代だからこそ、逆に不平や不満、悪意が心の深層に沈殿してしまい、それが無意識に表面化してしまうのだろう。
匿名性を利用してSNSやブログなどに誹謗中傷・罵詈雑言を書き込む人間の中には、無自覚の人間も少なくない。自らの「投稿」や「記事」が誰かを傷つけていると思わず、むしろ正しいことを発信していると思い込んでいる人間も多い。「このくらいなら」「この程度なら」と勝手に決め込んで発信したり、正論・正義と思い込んで投稿したりしている人間も多い。
「マイクロアグレッション」については、大東文化大学教授の渡辺雅之氏がわかりやすく解説している。
今までの「差別論」では、<差別ー被差別>の二項対立で考えることが多かった。例えば、部落問題は部落出身者と非部落出身者、ハンセン病問題はハンセン病患者か患者でないか、障がい者問題も同様である。人種問題や民族問題も同じである。しかし、それは<差別>を差別者か被差別者かという「立場」で考えている。この考えに立つ以上、<差別>は永久になくなることはない。被差別者というレッテルを剥がすことで、<差別>がなくなることもない。
「立場」で<差別者>かどうかを規定する考えは、確かに「部落差別」において使われてきた歴史はある。部落出身者かどうか、部落出身者=被差別者、非部落出身者=差別者という二分化で部落差別を解消しようとする動きがあった。糾弾闘争にも用いられた論理である。その結果、部落差別は「隠せばよい」「わからなければよい」ものとなり、根本的な解決に逆行してしまった。
<被差別者でなければ差別者>という「立場」に固執した考えから他者を非難する人間がいる。逆に自らを<差別者>という「立場」に規定して、<差別者>から<差別問題>(部落差別)を考えるなどという荒唐無稽の論法を持ち出す人間もいる。部落史や差別史を考察するのに、差別者とか被差別者とかの「立場」が必要なのだろうか。私には「屁理屈」としか思えない。
<差別>は「立場」ではなく、「態度」や「言動」で考えるべきである。<差別>行為をする人間や組織、団体、宗教、体制が問題なのであり、彼らが差別者なのである。部落出身者がハンセン病患者を<差別>することもある。キリスト教徒がイスラム教徒を<差別>することもある。<差別>は自分以外の「他の存在」との関係において、言動や態度、対応として表面化する。
また、多くの場合、「差別問題」と捉えているが、<差別>と<問題>を混同しているのではないだろうか。私は<差別>と<問題>は違うと考えている。部落差別をなくすことと部落問題を解決することは、別のアプローチが必要であると思っている。極論になるが、差別意識をもっていても、言動や態度、対応において<差別>という行為をしなければ、他の存在を傷つけることが一切なければ、それは<差別>ではないと考えている。「部落差別」はなくならないかもしれないが、「部落問題」は解決することができるとも考えている。
この渡辺氏の提言、自らの「知識」をアップデートしていくことで、「差別心」を自覚し、それに自らが対処していくことは、<差別>をなくすための重要なアプローチであるとは思う。
ただ、自民党の長谷川岳参院議員が「威圧的言動」などのパワハラ問題で「表現方法に関して、本当に無自覚であったと、心から反省をしています」という「無自覚」を弁明(言い訳)として使うのはあまりにも情けないと思う。