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光田健輔論(84) 栄光の光と影(6)

光田健輔は「時流にうまく乗った」あるいは「時勢にうまく適合した」と評することができる。意識していたかどうかはわからないが、光田の目的や計画はその時々の大きな時代の動きや変化に適応したものであったから、その時々に関係する人々から賛同と協力を得ることができた。また、それは逆に、光田が時勢に合わせて目的や計画、内容を修正したり説明を行ったりしたからだとも言える。


では、時代背景と光田の動向を照合しながら、光田が自らの計画をどのように遂行・実現していったかを、「検証会議」の考察をもとにまとめておきたい。

日本のハンセン病政策を「最初からのボタンの掛けちがい」と言った研究者がいるが、正鵠を射ていると思う。

第一回国際らい会議が開催されたのは、1897(明治30)年10月である。日本からは東京大学皮膚科土肥慶蔵が参加している。この会議では、ハンセン病はらい菌による伝染病であること、伝染の程度は顕著ではなく、各型によって異なっていること、相対的隔離方式のノルウェー方式が有効であることなどが決議された。
すなわち、ハンセン病の予防については、一般法の枠組みで予防活動を行い、病状の悪化している患者を居住地の病院で隔離し治療に当たらせていること、その場合も、放浪している患者に対する強制隔離と、他の患者に対する任意隔離の二本立てで採用していることなどがノルウェー方式の政策である。

光田健輔が、東京養育院にハンセン病患者の隔離病室「回春病室」を設けたのは1899(明治32)年である。そして、熊本市郊外にイギリス人女性宣教使ハンナ・リデルがハンセン病患者救済のために「回春病院」を開設したのが1895(明治28)年である。そのリデルが上京して病院経営の援助を大隈重信と渋沢栄一に求めたのが1905(明治38)年である。
リデルの要請を受けて、渋沢は銀行倶楽部で会合を開き、その席上で光田健輔はハンセン病に関する講話を行い、予防と隔離の必要を訴えた。ここで「ボタンの掛けちがい」が光田の手によって起こる。

…渋沢は「これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は計り知れないものがある」と発言した。光田健輔も、ハンセン病が恐るべき伝染病であること、日本は世界第一の「らい国」であることなどを述べて、渋沢の発言を医学面から裏付けようとした。
しかし、このような主張には、重大な日本的変容が含まれていた。その一つは、第一回国際らい会議で決議された隔離とは相対的隔離であったのに、日本では、この隔離の内容がいつの間にか絶対隔離にすり替えられてしまったことである。第二は、決議では、伝染性の程度は顕著ではなく、各型によって異なっているとされたにもかかわらず、渋沢、光田らによれば、ハンセン病は恐るべき伝染病であるとされたことである。この感染性であるから恐ろしいとの見解は、第一回国際らい会議にはみられない、渋沢、光田の独自の見解であった。
しかし、この見解が、以後、日本のハンセン病政策を導くことになった。

内田博文『ハンセン病 検証会議の記録』

渋沢については光田の見解をほぼ鵜呑みにしての発言であるから、結局は光田の独自の見解であるといえる。なぜ、光田は国際動向に反した「絶対隔離」を主張し、しかも激しい感染力をもつ急性感染症であるペストと慢性感染症であるハンセン病の違いを認識しているにも関わらず、ペストと同列に置き、「恐ろしい伝染病」であって、ハンセン病患者の隔離を急務と結論づけたのであろうか。

それは、1899(明治32)年7月に「日英通商航海条約」が発効していることと関係している。つまり、欧米人の内地雑居が開始されたことが要因の一つである。

1906年1月、光田は「癩病患者に対する処置に就いて」(『光田健輔と日本のらい予防事業』所収)と題した論文を発表している。

西洋の疫病史を大観し、先の第一回国際らい会議も決議の要点を述べ、次に「国家的事業として癩患者を隔離した邦国」と題して、諸国の隔離状況を収容人数の歴史推移から比較している。結論として、「絶対隔離に接近するに従がい新患者の発生を予防し得る」としている。その例証として、ハワイのモロカイ島の実例を挙げて詳細に説明している。
さらに「非国家的隔離法」と題して、ロシアやインドの実態を述べ、国家や政府が関与していない場合は「撲滅の方法となさんことは困難なる事業」であると国家の関与の必要性を説いている。「慈善的事業」では、熊本の回春病院や東京の慰廃園(起廃病院)などを例に、その必要性を認め、「無料にて国立癩病院付近の土地を貸与し、若くは治療上の便宜を与うる等」の援助をすべきであると述べている。
「自費的患者」では、富裕の患者が自費で大学や病院に「外来患者」として通院することを「外来患者として本病を扱う如きは、黒死病患者外来患者として取扱うと其理に於て大差なき」と批判している。また、草津の癩部落を例に患者が集住する危険性を述べている。
「行楽病者としての癩病患者」では、「郷里を出て浮浪者の群に入りて諸方を徘徊」することで、彼らが「癩病伝染の一大原因をなすべきなり」と述べ、さらに「此の恐る可き病毒の撒布者は諸国の到る処に徘徊し、殊に神社仏閣名所旧跡の地にして人の集合する所は彼等の生活に尤も便宜なる所として群集するを見る」と「癩村」の危険性にも言及している。それゆえ、「此の如きは一国の体面乃至一家の耻辱の如き無形的損害のみに止まらず実に公衆衛生上の有害物にして隔離所を起し此等の患者を強制的に収容するにあらずんば国家は罪悪を行いつつあるものと云うべし」と強く主張している。

…内務省内に設置された中央衛生会において、ハンセン病予防法案が検討された。そして、第23回帝国議会において審議の後、法律第11号「癩予防ニ関スル件」が可決、成立した。1907(明治40)年のことであった。政府は、どうして渋沢、光田らの独自の見解を採用したのであろうか。衆議院での審議において、政府委員はこの点を次のように説明している。
ハンセン病は伝染病であるが、その経過ははなはだ緩慢である。したがって、ハンセン病患者を取り締まり、隔離するのは医療・治療的観点からではない。日露戦争に勝利し、日本は一等国になったので、外観上よほど厭うべきハンセン病患者が神社等で不当していたり、路上で物乞いをしたりすることは国の恥であり、これらの取締りが必要である。このような説明であった。

内田博文『ハンセン病 検証会議の記録』

光田の論文および政府の説明にあった、ハンセン病患者(浮浪患者)は「一国の体面乃至一家の耻辱」「国の恥」「公衆衛生上の有害物」とする背景には、1894~5年の日清戦争の勝利と日英通商航海条約の調印、および領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復という条約改正の成功、さらに日英同盟の締結、日露戦争の勝利などによって、日本が「一等国になった」という自意識が生まれたことが深く関係している。

だが、光田健輔自身はどう思っていたのだろうか。
ハンセン病患者(浮浪患者)が市中や神社仏閣名所旧跡を徘徊する姿を欧米人が目にする機会が増えていくことを国家の「体面」上の「耻辱」と少しは考えていたかもしれない。しかし、むしろ自説である「絶対隔離政策」を実現するためには、その理由として「一等国」としては国辱であるとした方が政府あるいは国民に受け入れてもらいやすいと考えていたのではないだろうか。
どちらにせよ、これによりハンセン病者はその存在が「一等国」「文明国」となった日本にとって「国辱」であるとラベリングされたのである。ハンセン病患者に対する偏見や差別に新たな根拠が加えられたのである。


1909(明治42)年、ノルウェーのベルゲンで第二回国際らい会議が開催された。日本からは北里柴三郎が出席した。会議では、特に「らい菌は感染力が弱いこと」「隔離は患者が同意するような生活状態のもとにおける方式が望ましいこと」「隔離には家庭内隔離もあること」などが決議された。

このように国際会議では、らい菌は感染力が弱いことなどの理解の上に、強制隔離の制限に向かうべきことが決議されたのに対して、逆に日本では強制隔離の対象をすべての患者に広げる動きが具体化することになった。そのきっかけとなったのは、第一次世界大戦が始まった翌年の1915(大正4)年2月に光田健輔が内務省に提出した「癩予防ニ関スル意見」であった。

…光田はこの意見書においても、ハンセン病予防の第一案として全患者を離島に隔離することをあげている。「論者或ハ人権問題ヲ云為シテ患者ノ絶対的隔離ハ困難ナラント云フ者アレドモ今日迄ノ経験ニヨレバ一旦患者療養所ニ来リタル者ハ決シテ再ビ家郷ニ復スルモノアラズ、譬ヘ或事情ノ為メ一旦逃走スルコトアルトモ必ズ再ビ帰院スルカ若クハ他ノ療養所ヘ入院スル者ノ如シ、故ニ人権ヲ云為スル者極メテ少数ニ過ギザルベシ」と光田は説明する。全患者を強制的に離島に隔離することは人権問題にならないと豪語している。なぜならば、患者は生涯隔離されるのだから、社会に対しこれを人権問題として訴えるような患者はきわめて少数にすぎないからだと言う。ハンセン病患者の絶対的隔離を推進した光田にとり、患者の人権など眼中になかったのである。
…第二案として、公立療養所の拡張・新設をあげているが、「無籍乞丐癩」は「絶海ノ孤島ニ送リテ逃走ノ念ヲ絶ツニ如クハナシ」とも述べている。放浪患者を「絶海ノ孤島」に隔離するべきだというもので、光田はその「絶海ノ孤島」の例として小笠原諸島をあげている。
光田は、このあと第三案として各府県に一か所、いわゆる「癩村」を整理した療養区域を設けることをあげているのだが、光田が何より離島隔離を重視していることは明らかである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

「癩予防ニ関スル意見」(『光田健輔と日本のらい予防事業』所収)では「癩病患者に対する処置に就いて」よりも更に具体的かつ詳細な「絶対隔離」を実現するための提言をまとめている。光田は養育院に勤務しながら休日を利用しては全国のハンセン病患者の集住地(癩村)を実地調査している。この論文は、その調査結果に基づく私案である。
驚くべきは、小豆島を例に、一島を買い上げて居住者を移転させるとして必要な諸経費や建築費、あるいは既存の療養所を拡張、新設した場合の経費などを概算で見積もっていることだ。その負担を国費で賄う場合、各府県で賄う場合など、実に細かく計算している。つまり、測量を含めた実地調査および近隣の市街地の状況などの調査に基づいた「絶対隔離」の場所を選定するための意見書となっている。

「癩病患者に対する処置に就いて」「癩予防ニ関スル意見」の二論文だけみても、医学論文というよりも、政治的政策の意見書であって、「処置」「予防」のためには「絶対隔離政策」が最良であることを前提として光田が作成したことがわかる。
これを読めば、政府も内務省も光田の提言を納得して国策に取り入れるだろうことはよくわかる。

1916(大正5)年2月には、「癩予防ニ関スル件」が一部改正され、所長による入所者に対する懲戒・検束の規定も定められた。同規定の施行細則における懲戒検束事由の定めは極めて抽象的で、恣意的な運用の危険性を内包するものであった。これにより療養所長の取締りの権限が強化され、療養所の救護施設としての性格は後退し、強制収容施設としての性格が強くなった。
光田の「意見」を受けて、内務省に1916(大正5)年6月に設置された保健衛生調査会は、第一次世界大戦が終わった翌々年の1920(大正9)年6月、隔離の目標を1万人とする「根本的癩予防策要項」を決定した。これには、国立癩療養所の新設、資産を有する患者のための自由療養区の設置、感染の恐れのある職業への就業の禁止、患者の請求による生殖中絶方法の施行、等の施策も含まれていた。…この1万人収容計画は、1921(大正10)年6月、戦後恐慌により5000人収容計画(府県立連合療養所の拡張で4500人、)に修正されたが、国立療養所設置の方針は全患者収容と表裏一体の形で固まっていき、ついに1927(昭和2)年の第52回帝国議会で承認されることになった。

内田博文『ハンセン病 検証会議の記録』

以後、光田の「意見書」に基づいて日本のハンセン病政策は推進されていくとともに、光田はハンセン病の第一人者としての権威を得て、国策に強い影響力を持っていくことになる。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。