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光田健輔論(2) 正当化の欺瞞

敬愛する林力氏の『父からの手紙 再び「癩者」の息子として』の「はじめに」の最後は、次の言葉で締められている。

光田氏をとくに許せないと思うのは、光田氏が信奉し、利用してやまなかった天皇制絶対主義が崩壊し、特効薬プロミンの効果が臨床的に立証されているにもかかわらず、最後まで隔離政策を主張し、最終の法となった1953年の改正法の原動力であったことだ。

同感であり、私がずっと疑問に思っていたことでもある。
絶対隔離しかも終生、その継続を「遺言」とまで強調して訴えた光田健輔は、戦前は国際的潮流に反して、戦後はプロミンの効果が立証されているにもかかわらず、感染力が非常に弱いことが照明されていたにもかかわらず、初志貫徹にこだわり続けたのか。私には光田の<自己正当化の欺瞞>としか思えない。つまり、すべての情報や国内外の動向を知りながらも、自説に固執し、自らを正当化していたと思えるのである。
彼の(意識しているかいないかに関わらず)欺瞞に満ちた言動は枚挙に遑が無いが、そのいずれもが「自己正当化」に終始している。いくつか取り上げてみる。

藤野豊氏の『「いのち」の近代史』に「Ⅲ たたかう病者」「第三章 長島事件」がある。当時の新聞記事を詳細に検討して考察している。

事件が起こった当初、各新聞社の記事からは、内務省衛生局や岡山県警察、岡山県知事も、病苦に苦しむ患者に対して同情的であり温情主義で解決に当たろうとした。彼らの談話を受けて、「愛の殿堂に汚点」などとセンセーショナルに報じた。それに対して、光田健輔は次のように語っている。

どこまでも愛に立脚している建前で、平素から自由を認め弾圧など一切していないのです、患者の大部分のものはよく愛生の精神を知っていてくれているが、最近患者数の膨脹でたまたま少数不逞の徒が交り彼らのわがままから起こったことである、群集心理の動くところ恐ろしいものがあるので慎重な態度をもって一日も早く解決する(『大阪朝日新聞』8月15日)

藤野氏は、この時の光田の言動について、次のように分析している。

光田は事件を「少数不逞の徒」の「わがまま」から起こったと決めつけている。そして「平素から自由を認め弾圧など一切していない」と豪語もしている。そして、新聞記者をまえに、事件の渦中でも働いている医官・職員を指差し、「愛生の精神はあれだ、働けるものはだれも働き収入は誰にも分配せねばならぬ、問題そのものは何でもないが水疱に帰した愛生精神、再興が何より私を苦しめる訳だ」と大見得を切った(『大阪朝日新聞』岡山版 8月18日)。光田は何としても「愛の殿堂」というイメージを守らねばならなかったのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

光田の虚飾を剥ぎ取ろうとする患者に対して、自らの権威と立場を盾にして、実態を精神論の欺瞞で覆い隠そうとしたのである。藤野氏は「光田と愛生園当局はこの事件の背後にある隔離の現実への患者の不満を見ようとはせず、ただ事件全責任を患者の側に押しつけ、患者への弾圧強化をのみ今後の教訓としたのである」と結論づけている。
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光田健輔の回想録『愛生園日記』に、愛生園を運営する「基本構想」が書かれている。「立派な院風を作る」ために光田が「打ち出した構想」が「家族主義」であった。

第一 融和の精神
秩序ある平和な生活を送っていくためには、人間同士の融和が一番たいせつなことである。患者も職員も愛生園の家族である。私が家長となって、おたがいが親兄弟のように睦まじく暮らしていきたい。だれが治者でも被治者でもない。ただし民法には子供の行動を誤らせないように、親権を行う父母にその子供への懲戒権を認めている。同じように愛生園の家長も、患者に対する懲戒権をもっている。民法上の親子のように、それはあくまでも愛情の上にたったものでなければならないと私は皆にいいきかせた。

光田健輔『愛生園日記』

なんという理想論を大上段に振りかざして平気なのか。恥ずかしくないのか。明治の家族観からすれば当たり前だったのかもしれないが、それでも高慢で不遜な一方的な押しつけの「家族主義」である。光田の脳内と机上で作り上げられた「家族主義」でしかない。耳障りのよい言葉に、誰もが「理想」のように思うかもしれないが、「現実」は必ずしもそのようにはならないことは自明である。この「家族主義」について、藤野豊氏は次のように批判する。

…天皇制国家の支配の論理であった家族国家観が見事なまでに凝縮されていることに気づかされる。国家を家族に擬し、天皇を家長に、国民を「赤子」になぞらえる。…この論理が、園長光田健輔を家長と仰ぐことにより、愛生園にも持ちこまれたのである。

ハンセン病療養所では、「刑法」にもとづかず、「癩予防法」により、所長に患者に対する懲戒権が与えられていた。それは減食や30日以内の監禁をともなうもので、およそ病者を治療する施設にはあり得ない規定であった。愛生園でも園長光田の方針に反する患者は、懲戒の対象とされ、この懲戒権を持つがゆえに、光田は愛生園において独裁者たりえたのである。患者の生命と人生をもてあそぶがごとき懲戒権も、「家族主義の愛」の一家として正当化されてしまう。
愛生園は開園当初から定員オーバーの状況が続き、患者の医療・生活条件は悪化していく。そうしたことへの不満が爆発しないように、この懲戒権は有効に機能した。そして、園外には「愛」「家族主義」などの美辞麗句が宣伝されていった。患者の郵便物は検閲されていたため、患者は「愛」や「家族主義」の実態を園外に伝えることは困難であった。世論は、光田を「愛」の医師に祭り上げ、隔離政策こそが患者本人をも救うことだと決めつけていったのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

実態を見ずに(知りもせず)語られる理想論からイメージして、人々は哀れで悲惨なハンセン病患者が「愛の殿堂」で「家族」にように過ごすことができると、まさに「救癩」の世界だと信じ込んでしまう。それをつくりあげた光田には、自分たちができない(顔を背けていた)ハンセン病患者を「愛」で救った医師と尊敬する。「シュヴァイツァーを越ゆるもの」などの讃辞が並ぶ。イメージほど作られるものはなく、そのイメージもまた一人歩きをする。

第二 互助の精神
…会の役員は、患者と職員の双方から選び出されて運営し、会計事務は全部公表される。だから他の療養所にみられる患者だけの自治会や互助会の必要はない。…軽症者は家族舎にはいって、健康な一般家庭のように家族的に生活する。重症になったり、また本病以外の肺結核などを併発すると、重病舎に入室する。…失明したり、脚を切断している者は不自由舎にはいる。ここでは軽症者が、重症者や不自由者の付添看護をする。…ライ療養所では看護婦も手不足で一般経費も乏しいので、付添、洗濯、土工、木工、家畜の飼育などに軽症者が働いて、健康者の労務をはぶくと同時に、それが患者自身の日常の慰めともなっている。作業には一定の慰労金を出す。衣食住と治療費はいっさい無料だとはいえ、多少のこづかいは必要である。

光田健輔『愛生園日記』

長いので要点のみを書き出すと、園内の売店の売り上げを特別会計に入れ、その利益金の一部を基本金に繰り入れて「患者救済金」として働くことができない重症者を助ける。さらに一定の収入(慰労金)以上の者から超過した金額を「指定寄附」の名目で取り上げて「救済資金」にする。つまり軽症者が働き、その一部で重症者を救済する。光田はこれを「愛生園の家族主義の神髄」であると言い、「大家族を形成している以上は、ひどく収入の差があっては、第一にあげた『融和』がぐらつくもとになる。その超過額を寄付することで、収入のない人たちが救われるのを喜ばなくてはならない」と言う。

続けて、第三に「犠牲奉仕の精神」を掲げて、光田は「団体生活を理想的にするためには、犠牲の精神がなくてはならない。それも義務ではなく自発的にやってこそ意義がある」と患者を教訓する。

この道徳的な訓話を聞けば、納得する者も多かったであろう。まさに理想的な運営であるとさえ外部の人間は思っただろう。キリスト教的な友愛の精神と勘違いした者も多くいたではないだろうか。
だが、現実の<実態>は見えてこない。患者作業がどれほどに過酷であり、施設職員の強制と無理強いがどれほど横暴であったか。慰労金の少なさ、しかも園内でしか通用しないお金(金券:園内通用券)である。

光田のこの考えや実行は、成田稔氏によれば、「患者作業、懲戒検束、所内婚姻、断種手術などは、1910年から1916年あたりまでにほとんど慣行化されており、それらが絶対隔離の遂行を思考し、さらには完遂を夢想させていたのは確かだろう」と、つまり光田は全生病院で医長を勤めていた頃より実施していたのである。
その目的は「最小の経費をもって最大の効果をあげる」ことであった。つまり、経費節減であった。安い慰労金で患者を酷使したのである。1934年頃の患者による作業項目は98種もあったという。
光田は「療養所の所要経費が結核療養所のそれの三分の一に抑えられているのも、癩患者は無熱で重症になっても労働に耐えられ、それが施設の経済を支えてきた」からだと豪語しているが、きれいごとでしかない。職員の不足を補い、負担を軽減するためでしかない。本末転倒としか思えない。

患者が<作業治療>の結果として、手の指を失い、まるで纏足のように足を短縮し、中には失明に至ったものすらある現実を、相互扶助、同衾相憐などと讃えるこうした光田の言は、無神経さそのものであり到底医療者のものではない。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

少しでも多くの患者を収容し、終生絶対隔離を堅持するための「方便」でしかない。それを誤魔化すための精神論であり、外部に対して体裁を取り繕っているだけである。まさに正当化の欺瞞である。

「犠牲奉仕の精神」の例として、光田は次のように書いている。

愛生園の拡張工事にも労働奉仕が行われて、婦女子も老人も盲人も分におうじて働いた。指が脱落した手にホウタイでノミをくくりつけ働いた患者さえある。

光田健輔『愛生園日記』

療養所である。患者は治療し療養するために入所しているのだ。光田には患者の姿は見えていない。見えているのは自分の理想とする姿だけだ。


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。