ハンセン病問題を過去のこと、終わったこと、今は改善されているから等々と安易に片付けてしまうべきではない。なぜ、このような悲惨なことが起こったのかを知るべきであり、将来に向けての教訓として学ぶべきである。表面的な事実(できごと)だけではなく、その歴史的背景と要因を明確化し、それこそを後世に伝えていく必要がある。同じ過ちを繰り返さないためにも、どこに問題があるのか、なぜ残酷な悲劇が起こったのかを知るべきである。
『ふれあい福祉だより』(第20号)に、藤野豊氏の小論「ハンセン病隔離政策90年の歴史」が掲載されている。引用しながらまとめておく。
藤野氏のこの指摘は重要である。ハンセン病患者に対する「隔離政策」は感染予防と「国家の体面」によるものであった。
なぜハンセン病患者が「非文明国」「三等国」の基準となるのか。宮坂道夫氏の『ハンセン病 重監房の記録』より引用する。
要するに、アジア・アフリカの植民地にハンセン病患者が多いことから「非文明国」「三等国」の基準が生まれたのであろう。ハンセン病患者が減少していた欧米諸国において、植民地からハンセン病患者やハンセン菌が流入することが脅威であった。こうした欧米諸国の考え(判断基準)が日本におけるハンセン病患者への「強制隔離」政策を決定づけたのである。
藤野豊氏は上記の引用に続けて、次のように述べている。
人々にハンセン病への恐怖心を抱かせた要因は、患者の顔や四肢に表れる変形や機能不全、そして「感染症」であることから<うつる>ということが大きい。ハンセン病を指す俗語に「くずれ」「くされ」などがあることからもわかる。<うつる(感染する)>ということは、自分たちの身体も変形し、機能不全に到るということを意味している。これが「強制隔離」の正当性を保障することになるとともに、人々が彼らに対して「排除」「排斥」を行う根拠と正当性を与えることになったのである。このことが「無らい県運動」の加速的な拡大の背景にもなった。
明治以後、諸外国との国交が開かれ、貿易商人を中心に多くの外国人が訪問するようになり、欧米諸国の<近代国家>としての諸制度や技術力の格差を痛感した政府は、重要課題の<条約改正>の妨げとなっている諸制度の改革と同時に、<体面>上の問題であるスラムや浮浪者、ハンセン病患者、被差別部落などへの対策を急務と考えるようになった。
<体面>への対処は<隠すこと>である。その最も顕著な例が「別府的ケ浜事件」である。
1922(大正11)年3月、的ヶ浜にあった「山窩乞食」の集落(貧民窟)を警察官が焼き払った事件。住民の中にハンセン病患者が4名いた。つまり、「皇族の閑院宮の来訪を直近に控えた別府で、治安対策の一環として警察は的ヶ浜の住民に対して『山窩狩』をおこなったが、そこには4人のハンセン病患者もいたため、消毒の意味で住居を焼き払った」(藤野豊『「いのち」の近代史』より)のである。
ハンセン病患者を救済(治療、差別から守る)する目的、欧米諸国に対する体面(「文明国」「一等国」)を保つという目的、国民の健康を維持(感染を防ぐ)する目的のため、選択された手段(方法・対策)が「絶対隔離政策」であった。
ハンセン病に対する恐怖心を煽るかのように、感染力が事実とは逆に誇張して広められ、治療法がない「不治の病」であり、顔や四肢が変形したり失明したりするのは(末梢神経が侵されることによる)二次障害であるにもかかわらず「病気による(直接の)結果」として強烈に喧伝された。その中心は医師であり政治家であった。
『ふれあい福祉だより』(第20号)所収の和泉眞藏「終焉期を迎えた日本のハンセン病と感染症差別のない社会」の一文である。隔離政策の背景を端的に言い表している。
国を動かす政治家や官僚にハンセン病に関する専門知識は乏しい。医師による説明や提言を鵜呑みにしたと考えてよいだろう。<国民を守る><外国への体面>という「目的」(正義)のため、最も有効な「手段」(政策)を選択したのであって、そこには「大義」を果たす使命感こそあっても、「犠牲」となる患者のことなど顧みることはなかったであろう。
医師においては、ハンセン病根絶が「目的」であり、これ以上の蔓延を防ぐために、離島などへ「絶対隔離」という「手段」をとることが最善の方法であると考えたのである。「治療」「療養」という名目で療養所に集め、「絶対隔離」を実行する。その中心人物が光田健輔である。