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光田健輔論(83) 栄光の光と影(5)

光田健輔は、渋沢栄一を核として政財界の権力者を「後ろ楯」として人脈を築いていく一方で、彼らを結集した組織(「癩予防協会」)を作ったことで、自らが構想したハンセン病対策を実現する上での強固な支持基盤を得ることができた。さらに、賀川豊彦の「日本MTL」(MissiontoLepers)や後藤静香の「希望社」など外部団体との連携を図り、協力と支援を得ていく。

光田の称賛すべきは、この支援体制づくりであろう。いくら計画立案に優れていようと、それを実現するためには実行力以上に、協力支援を運営する組織が必要である。光田は「救らい」というスローガンに国家的あるいは人道的な意義を強調することで、人を集め、組織を作ったのである。
特に、後々まで光田が推進するハンセン病政策に対する経済的支援だけでなく、政治的および精神的支援を果たすことになるのが「皇室」である。

奈良時代、光明皇后は、湯を立て民1000人の垢を摺ることを仏に誓願したという。そして満願の1000人目に訪れたのは、「癩者」であった。「癩者」は垢擦りだけではなく、全身の傷口の膿を吸ってくれと皇后に求めた。皇后はためらうが仏への誓願であり、膿を吸い尽した。すると、その「癩者」の姿は阿閦如来と化した。これは1322年に虎関師錬が著した仏教史書『元亨釈書』に記されている有名な物語である。

すなわち、光明皇后の施湯をめぐる伝説が時代とともに変化し、『元亨釈書』に至って「癩者」の膿を吸うという行為を創作させたのである。その理由として、小林(茂文)氏は「癩者は全身爛れ膿んだ最も忌避すべき者、それを光明皇后が舐り吸い出す。現実の慈悲を遥かに超越した存在として、皇后を伝承の中に押し込めてしまった」と説明する。
皇后の行為の尊さを強調するため、『元亨釈書』が書かれた鎌倉時代末期、もっとも差別される存在となっていた「癩者」が登場させられたのである。高貴な皇后が、被差別の極致にあった「癩者」の膿を吸うことで、皇后の行為の偉大さが強調され、それゆえ仏に願いが通じたということに説得力を持たせたのである。
この光明皇后施湯伝説は、近代天皇制のハンセン病患者への「御仁慈」へと結び付けられる。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

光田は、1914年に渋沢が会長を務める中央慈善会の主催する癩予防懇談会で講演した際にも、また翌年に内務省に提出した「癩予防に関する意見」の中でも、「光明会」という組織の設立を提案している。この計画は実現しなかったが、組織名からもわかるように光田は「皇室」の「御威光」と「御仁慈」を、以後、訓話においても要請においても、何かにつけて持ち出して利用していった。
前回に書いたが、癩予防協会においても貞明皇后からの「下賜金」がなければ設立できていなかった。

国家はハンセン病患者を徹底的に隔離して、その一方で皇室の「御仁慈」の対象として、憐憫を施してきた。換言すれば、ハンセン病患者は、皇室の「御仁慈」を宣伝する格好の対象とされ続けてきたのである。「御仁慈」の対象である限り、ハンセン病患者は人権を主張することは許されず、同情される哀れな存在であり続けなければならなかった。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

確かに、皇室の「御仁慈」の何が悪いのかと言う人もいる。憐憫の情で慰問する皇族によって慰められた患者も多い。多大な「下賜」によって施設や設備が整い環境が改善されたと「皇恩」を感じている患者も多い。

私はそうした患者たちの気持ちを否定するものではない。殊に精神的なやすらぎに感謝している患者にとって皇室の存在は大きいだろう。しかし、「皇室」の存在、「御仁慈」を目的のための手段として「利用」している者たちがいること、また「利用」される存在としての側面があることを問題としたい。そして、それを「皇室」自らが判断することも、拒否することもできないのだ。

…隔離の非人道性をカムフラージュし、隔離された患者に感謝と諦めの境地を強要する皇族を動員した「御仁慈」の押し付けは、しばしば「救癩」と美化されてきた。
天皇制国家の特質は、特高警察による国民の思想弾圧、軍隊によるアジア諸民族への侵略だけではない。皇室の「御仁慈」による社会矛盾や民衆への抑圧の隠蔽を忘れてはならない。そして、このことは戦前はもちろん、戦後の象徴天皇制のもとでも一貫されている。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

人の「後ろ楯」はその人間が離れれば潰えるが、組織はその基盤が強固であれば潰えることはない。癩予防協会と日本MTLは、長きに渡り光田健輔の強力な「後ろ楯」となり、光田が推進する絶対隔離政策を支えていくことになる。何より両組織の支持母体は「皇室」と「キリスト教」であり、「救癩」という使命を共有することで強く結びつき、崩れることはない。さらに、それぞれに関係する諸団体がつながり、日本のハンセン病政策推進の支持基盤を形成していくことになる。それらが最も力を発揮したのが「無らい県運動」である。


「癩予防協会」および「藤楓協会」についてまとめておく。

1930(昭和5)年、次田大三郎地方局長の献策に基づき安達内務大臣が貞明皇后に、皇室の力を借りて癩予防事業を達成したい旨を嘆願し、同年11月に御下賜金10万円を得た。これを基金にして翌1931(昭和6)年3月、財団法人癩予防協会が設立された。

癩予防協会の目的は、癩の予防絶滅に関する調査研究・宣伝・事業の後援等で、予防に関する思想の普及啓発・調査研究や事業の助成・患家の扶助・児童保育所設置・療養所内に相談所設置・療養所収容患者の慰安・予防事業従事者の奨励等の事業を行った。

「癩予防法」の改正をめぐる論議が高まりつつあった1951年5月17日、貞明皇后は死去した。死後、政財官界から貞明皇后の「御遺金を救癩事業へ」という運動が起こる。貞明皇后は、死後も「救癩」のシンボルであり続けることとなる。厚生省は、貞明皇后の遺金を基金とする「救癩団体」設立へ向けて二億円を目標に全国規模での募金活動を展開し、1952年6月、高松宮宣仁を総裁とする財団法人藤楓協会が発足、会長には下村宏(海南)が就任、それまでの癩予防協会の事業は藤楓協会に受け継がれた。

会長となった下村宏は、台湾総督府民政長官、同総務長官、朝日新聞副社長、貴族院議員などを歴任し、敗戦時の鈴木貫太郎内閣の閣僚も務めた人物で、ハンセン病患者に対しては、一貫した絶対隔離推進論者であった。

1951年11月、参議院厚生委員会で隔離強化のための法改正を求めた光田健輔への長島愛生園の入所者の怒りの行動は「眉をひそめざるを得な」いものと非難された。戦前から貴族院議員として、優生学的視点からハンセン病患者の隔離強化を主張し続けてきた下村には、隔離強化反対を唱える全患協の存在は苦々しいものと受けとめられたのである。
(藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』)

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

戦前から下村は「人種改良を国策に」「障害者や犯罪者は断種すべき」と強く主張した人物であり、「優生保護法」の前身となる「国民優生法」の成立に深く関わった一人でもある。

優生思想の推進者である下村を会長としたことからも、藤楓協会の目的は明らかである。すなわち、貞明皇后の御遺志を受け継ぎ、「癩の根絶」を期して「救癩事業」の国民運動を起こすこと、隔離収容強化を支持する世論を喚起することであった。

藤楓協会も「名実共に純然たる民間団体」と自負しているが、理事長に元厚生省予防局長高野六郎、常務理事に元厚生省予防局長濵野規矩雄を配し、理事に山口正義、児玉政介、元内務省次官赤木朝治、元厚生省衛生局長勝俣稔らを配している。厚生省の現職官僚、元官僚らが役員を務めていて、この点においても「純然たる民間団体」と言うことはできない。藤楓協会は、その誕生から厚生省と一体の関係にあった。皇室の「御仁慈」を強調することにより、全患協の運動を抑制し、「純然たる民間団体」を装って、「文化国家」に反するハンセン病患者の絶滅を目指し、隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

役員に名を連ねた人物の元肩書きを見るだけでも「天下り機関」とわかる。癩予防協会から藤楓協会、そして現在の「ふれあい福祉協会」に至るまで、一貫して厚生省などの官僚出身者が役員を務めている。のちに濵野規矩雄も理事長となっているが、元厚生省医務局長の大谷藤郎にしても、「癩予防法」改正反対闘争において全患協に対応した厚生省結核予防課長聖成稔も理事長に就任している。


当初より意図したものか、計画的であったのか、それはわからないが、光田の巧妙な戦略的といってもよい絶対隔離推進の組織的支持体制はできあがっていった。

結局、「らい予防法」廃止に国が動くのは、光田健輔らの影響力が薄れた1990年代に入ってからであった。1964年に光田が死去した後も、療養所の所長には光田の弟子や門下生など直系が残っていたし、厚生省や藤楓協会などにも光田路線を代々引き継いできた人々がいたからである。彼らの多くが退職して現場を離れ、徐々にではあるが新しい時代の風が吹き始めてからである。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。