光田健輔論(83) 栄光の光と影(5)
光田健輔は、渋沢栄一を核として政財界の権力者を「後ろ楯」として人脈を築いていく一方で、彼らを結集した組織(「癩予防協会」)を作ったことで、自らが構想したハンセン病対策を実現する上での強固な支持基盤を得ることができた。さらに、賀川豊彦の「日本MTL」(MissiontoLepers)や後藤静香の「希望社」など外部団体との連携を図り、協力と支援を得ていく。
光田の称賛すべきは、この支援体制づくりであろう。いくら計画立案に優れていようと、それを実現するためには実行力以上に、協力支援を運営する組織が必要である。光田は「救らい」というスローガンに国家的あるいは人道的な意義を強調することで、人を集め、組織を作ったのである。
特に、後々まで光田が推進するハンセン病政策に対する経済的支援だけでなく、政治的および精神的支援を果たすことになるのが「皇室」である。
光田は、1914年に渋沢が会長を務める中央慈善会の主催する癩予防懇談会で講演した際にも、また翌年に内務省に提出した「癩予防に関する意見」の中でも、「光明会」という組織の設立を提案している。この計画は実現しなかったが、組織名からもわかるように光田は「皇室」の「御威光」と「御仁慈」を、以後、訓話においても要請においても、何かにつけて持ち出して利用していった。
前回に書いたが、癩予防協会においても貞明皇后からの「下賜金」がなければ設立できていなかった。
確かに、皇室の「御仁慈」の何が悪いのかと言う人もいる。憐憫の情で慰問する皇族によって慰められた患者も多い。多大な「下賜」によって施設や設備が整い環境が改善されたと「皇恩」を感じている患者も多い。
私はそうした患者たちの気持ちを否定するものではない。殊に精神的なやすらぎに感謝している患者にとって皇室の存在は大きいだろう。しかし、「皇室」の存在、「御仁慈」を目的のための手段として「利用」している者たちがいること、また「利用」される存在としての側面があることを問題としたい。そして、それを「皇室」自らが判断することも、拒否することもできないのだ。
人の「後ろ楯」はその人間が離れれば潰えるが、組織はその基盤が強固であれば潰えることはない。癩予防協会と日本MTLは、長きに渡り光田健輔の強力な「後ろ楯」となり、光田が推進する絶対隔離政策を支えていくことになる。何より両組織の支持母体は「皇室」と「キリスト教」であり、「救癩」という使命を共有することで強く結びつき、崩れることはない。さらに、それぞれに関係する諸団体がつながり、日本のハンセン病政策推進の支持基盤を形成していくことになる。それらが最も力を発揮したのが「無らい県運動」である。
「癩予防協会」および「藤楓協会」についてまとめておく。
1930(昭和5)年、次田大三郎地方局長の献策に基づき安達内務大臣が貞明皇后に、皇室の力を借りて癩予防事業を達成したい旨を嘆願し、同年11月に御下賜金10万円を得た。これを基金にして翌1931(昭和6)年3月、財団法人癩予防協会が設立された。
癩予防協会の目的は、癩の予防絶滅に関する調査研究・宣伝・事業の後援等で、予防に関する思想の普及啓発・調査研究や事業の助成・患家の扶助・児童保育所設置・療養所内に相談所設置・療養所収容患者の慰安・予防事業従事者の奨励等の事業を行った。
戦前から下村は「人種改良を国策に」「障害者や犯罪者は断種すべき」と強く主張した人物であり、「優生保護法」の前身となる「国民優生法」の成立に深く関わった一人でもある。
優生思想の推進者である下村を会長としたことからも、藤楓協会の目的は明らかである。すなわち、貞明皇后の御遺志を受け継ぎ、「癩の根絶」を期して「救癩事業」の国民運動を起こすこと、隔離収容強化を支持する世論を喚起することであった。
役員に名を連ねた人物の元肩書きを見るだけでも「天下り機関」とわかる。癩予防協会から藤楓協会、そして現在の「ふれあい福祉協会」に至るまで、一貫して厚生省などの官僚出身者が役員を務めている。のちに濵野規矩雄も理事長となっているが、元厚生省医務局長の大谷藤郎にしても、「癩予防法」改正反対闘争において全患協に対応した厚生省結核予防課長聖成稔も理事長に就任している。
当初より意図したものか、計画的であったのか、それはわからないが、光田の巧妙な戦略的といってもよい絶対隔離推進の組織的支持体制はできあがっていった。
結局、「らい予防法」廃止に国が動くのは、光田健輔らの影響力が薄れた1990年代に入ってからであった。1964年に光田が死去した後も、療養所の所長には光田の弟子や門下生など直系が残っていたし、厚生省や藤楓協会などにも光田路線を代々引き継いできた人々がいたからである。彼らの多くが退職して現場を離れ、徐々にではあるが新しい時代の風が吹き始めてからである。