池田光政と正室勝子
池田光政の正室は,伊勢桑名藩主のちの晩秋姫路藩主となった本多忠刻の娘,勝子(円盛院)で,その母は将軍秀忠の娘で,豊臣秀頼の正室であり,大坂城落城後に忠刻と再婚した千姫である。
光政の父である利隆は,三河豊橋十五万石の領主であった輝政と中川瀬兵衛の娘糸子との間に生まれた。しかし,徳川家康が輝政を豊臣陣営から自分の陣営に引き込むために,自分の二女富子を強引に輝政の正室におしつけてきた。輝政はこれには甚だ迷惑したが,家康の圧力に抗しきれず,中川糸子を離縁し,富子を継室として迎えた。この結果,輝政は家康の娘婿となり,関ヶ原の戦いでは東軍に属して活躍し,論功行賞として播州姫路五十二万石の大名となった。
輝政には離縁した中川糸子との間にできた嫡子利隆がいたが,富子との間にも忠継・忠雄などが生まれ,徳川氏の血を引く系統と,そうでない系統が対立することとなった。このため,利隆は徳川家より外様として見られ,利隆が急死した後,元和三年(1617)当時九歳であった光政を年幼少の口実をもって因伯三十二万石に減封左遷され,そのあとには将軍秀忠の娘婿である本多忠刻が入城してきた。
光政は僻地因伯で困苦欠乏に耐える生活を強いられた。五十二万石から三十二万石に減封されても家臣の数は減ずることはできず,家臣の知行。扶持高を六割に減額せずるを得なかった。また,入城した鳥取城は,前藩主池田長幸(利隆の従弟,備中松山に移封)は六万石の大名であったため,光政の家中が入るには手狭であった。そのため,城域拡大の工事にかからねばならなかった。
元和九年(1623),光政十五歳の時,将軍家光より「殿上元服の儀」により加冠され,従四位下侍従に任ぜられ,さらに家光の偏諱の一字を賜って幸隆より「光政」と改名を命ぜられた。そのとき,本多忠刻の娘勝子を秀忠の養女として光政の正室にするよう命じられた。光政は,大御所の孫娘など田舎大名には勿体ないこと,財政不如意の状態では将軍家との縁組みなどの余力がないことなどを理由に断ったが,命令は絶対的であり,寛永五年(1628)勝子は前将軍秀忠の養女の資格で,大名小路の備前藩邸に輿入れしてきた。
光政は今までの幕府の対応への批判から勝子に対しても冷ややかな態度であった。ところが,寛永八年正月早々に,光政は疱瘡(天然痘)にかかり,高熱にうかされて生死の境をさまよった。その時,江戸家老の津田貞永などは勝子への感染を恐れて看病を断ったが,勝子はこれを叱りつけ寝ずの看病に専心した。光政の疱瘡も勝子の看病により平癒していったが,病痕は彼の面相を一変させ醜顔となった。
光政は勝子に「勝姫,あるじがこのような顔になったからには,お前もいよいよ愛想が尽きたであろう。よいよい何時でも離婚して里方に帰してやるぞ。」と言った。
勝子はこれに対して「私は殿がそのようなお顔になられても少しも悲しくありません。いや本当は心が安まるのです。殿方は正室の色香の衰えへと共に多数の側室をおかれる事,しかし,今のお顔では側室などは寄りつかず,今後は,共白髪まで,この勝子のみを唯一の女として,愛して下さる筈,私はそれが本当に泣けるほど嬉しいのです。」と申し上げた。
光政はこの勝子の一言を聞いて,今までの態度を恥じて,この世で愛すべき女は勝子一人と心に誓った。
以後は,江戸藩邸においては一人の側室も持たず,勝子のみを愛し,世子綱政の他四人の女子をもうけている。これにより,勝子の母である天樹院を通じて将軍家のおぼえもよくなり,寛永九年(1632)には,将軍自ら「備前は手先であるから,因伯両国より国替を命ずる。」と備前国をあたえられ,併せて御刀と良馬を賜った。
そして,光政の財政危機を救い続けたのも,天樹院であった。彼女は化粧料を節約して莫大な資金援助を光政に与えていた。その額,四万両以上と言われている。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。