差別はなくならないのか
残念なことだし、悔しいことだが、差別はなくならないと思っている。理由は簡単だ。人間の多様性があるかぎり、差別も多様性をもつからだ。皆が心のどこかでそう思っている。そう思いながらも、差別がなくなることを願っている。
人間の多様性と差別の多様性は複雑に連関している。
差別をしていることを意識できずに差別している。無意識・無自覚の差別者がいる。
差別をしようと意識して差別をする。意識・自覚している差別者がいる。
差別を肯定する。差別は仕方がないことだと諦める。傍観する差別者がいる。
彼らは自らを被差別者とは思っていない。現状では自らは差別を受けていないと思っている。
「差別者」の意味すら知らずに、安直に自らを「差別者」と公言して自己正当化に利用する。「差別とは何か」をわからず、わかろうともせず、差別していないと思っている差別者がいる。
「学歴差別」反対を表明しながら、他者を「学歴」で判別し、揶揄・愚弄する差別者がいる。
一体、差別とは何であろうか。果たして明確な定義や基準はあるのだろうか。「差別論」に類する書籍や論文をどれほど読み漁っただろうか。古今東西の学者を引き合いに出したり、社会学から心理学さらに哲学まで持ち出して高尚な学問に仕立て上げたり、さも難解な言葉で飾り立てたりして、わかったようなことを書いている。しかし、解明できたようで、否、解明できているにも関わらず、なぜ一向に差別は解消されないのだろうか。
それは<差別>が人間の意識や感情の産物であるからに他ならない。
差別が何かをわかっても、差別に反対しても、他者に対する<感情>ゆえに抑えることができないのだ。
忘れられない言葉がある。
この言葉を「自分事」「他人事」のちがいと簡単に片付けられるほど、差別、部落差別は単純ではない。この言葉を書いた部落出身教師は、どれだけの体験と思いをしてきただろうか。悔しさと苦悩、悲哀に涙してきたことだろうか。そう思いたくないと思いながらも、現実を否という程に見てきた彼の言葉である。重い言葉である。
一方で、その重みすら感じることもなく、それが現実であり人間であり、世の中だとつぶやく者もいる。心痛める者の傍らを一顧だにせず歩き去って行く者がいる。慰めの言葉が重いか軽いかを瞬時に見分ける者がいることさえ気づかずに…自分の言葉が果たして重いのかと自問しない人間がいる。
しかし、彼は<差別>は憎むが、人を憎むことはない。人を批判して自分の優位性を誇るような生き方はしない。まして、自分を棚に上げて人を批判する人間では決してない。
批判検証の名目で人を見下す人間に部落差別の解消など提言できるはずがない。常に自分の言動を顧みる人間と、常に自己保身と自己正当化に終始している人間のちがいである。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。