流人島から流犬島へ
1 藩主の狩場
現在の備前市日生町には,陸地部の他に沖合に,鹿久居島・鶴島・頭島・大多府島など日生諸島とよばれる島々が点在している。
鹿久居島は,その名の通り野生の鹿や猪の棲息が多く,池田光政・綱政はしばしばこの島で狩猟を行っている。
正保三年(1646)十月,家来の侍20人を勢子頭に,付近の村から集めた水夫200人を勢子に使い,3日間の鹿狩りを行い,数十頭の獲物を得たことが記録に残っている。光政は隠居後も延宝六年(1678)三月に鹿狩りで43頭,翌七年二月は寒河で一泊,二日続けて和気・邑久両郡から勢子1000人,船75隻を徴発し,計106頭を捕ったとある。
さらに,翌年の二月,藩主綱政は御供524人,光政も御供265人を従えて,二日間で,総勢4552人の勢子と徴用船256隻という大掛かりな狩猟をおこなっているが,獲物は45頭だった。その後,獲物の数が減少したこともあって,藩主の狩猟も少なくなり,明和七年(1770)の治政の狩猟(獲物は鹿15頭,猪75頭)を最後に禁猟区に指定されている。
延宝七年(1679),津田永忠は藩主綱政の命で,鹿久居島と鴻島,片上湾内の前島の三か所に御用馬の育成場を開設している。和気郡内に田を開墾し,年貢を飼料代に充てた。先の延宝期の鹿狩りは,このための有害獣駆除がねらいであったと思われる。
天和三年(1683)に最初の二頭,次が貞享四年(1687)に三頭,同三年に一頭,元禄元年(1688)に二頭,同三年に五頭,同五年に三頭,同六年に三頭と,計19頭を数えた。
しかし,元禄十一年(1698),馬牧を撤収している。
2 流刑場
鹿久居島が「流人島」とされたのは元禄十一年(1698)の綱政の時であり,宝永七年(1710)に廃止されるまで十二年間続けられた。
『吉備温故秘録』によると,長六間半・横二間半(1間=6尺=1.82mとして,長約11.8m 横4.5m)の茅葺きの御用場一軒,長十八間・横三間の茅葺き流人小屋二軒,長十間・横二間半の敷瓦の長小屋一軒,一間四方の茅葺きの遠見番所二軒,長一間半・横一間の堀立茅葦き御番人当分仮番所一軒などを建設している。
絵図によると,東側に庶民を収容する長屋三棟,西側に武士用の小屋屋敷六棟,見張りの足軽番所,少し離れて牢屋と鉄牢,中央の山手には薪小屋,炊事などの仕出小屋があった。
監視体制については,約150石取程の武士二名が鹿久居島奉行としてその任に当たり,彼らは平素は陸地部の日生村の役宅で生活し,定期的に渡島して流人小屋を見回る程度で,直接の監視は島に常駐した足軽が行っていた。
流人たちの待遇は,罪の軽重や刑罰によって決められたのではなく,実際はその属する身分(階級)や男女の性別によって分けられたのである。その待遇は九段階にわかれており,たとえば「上の上」では,武士男の場合,1日あたり米七合五勺,鼻紙1ヶ月一束の支給があったが,「下の下」では,平民女・小供の場合,1日あたり塩三勺,麦二合五勺,下味噌二勺の支給であった。
待遇が下がるにしたがって官給だけでは生活ができず,未開地を開拓して食糧の自給をはからなければならなかった。しかし,地味もやせた山地ばかりのため耕作も困難であったため,山の柴を刈り,それを本土から来る舟に売って(長さ二尺の縄で芝14束につき麦三合の加給),生活物資の購入にあてていたようである。
罪人はそれぞれに刑期が決められており,その間に改心の情があらわれれば解放されて郷里に帰ることも許されるわけだが,罪人の中で反省もなく役人を困らせる者などは,奉行の命により島の南部にある首切島と呼ばれる小島(周囲180m)で斬首された。
流人となった者には,江戸在中に遊里に通い登楼に耽り家法を犯した江戸詰侍,検地の際に賄賂を取った竿先奉行(検地奉行)の若党,博徒,博奕をした流僧や修験者,放蕩に耽った者,自殺した者の遺族(生活困窮のため)など様々である。
宝永五年(1708)十一月から翌年一月までの史料には,約三ヶ月間に10人が死亡,新入り28人増で,差し引き総数176人とある。身分別では武士21人(妻1人),他は僧侶5人,医師1人を含む庶民の男女である。
宝永七年(1710)三月,鹿久居島流罪が廃止になり,軽犯罪者は日生村で放免し,重罪者は岡山城下・弓之町の牢屋へ移された。
3 流犬島
綱吉が死去して家宣が六代将軍となると世論にもおされて「生類憐みの令」は廃止された。しかし,今度は反対に,全国的に犬に対する弾圧が始まった。江戸市民の中にはこれまでのお返しとばかりに犬を蹴飛ばしたりしていじめる者もいた。
岡山藩においても,増えすぎた野犬に対する「野犬狩り」が行われるようになり,正徳元年(1711)より弘化二年(1845)に至る134年間に,合計25回の厳重な野犬狩りの布告が町奉行より発令されている。平均して5年に1回は出されていることになる。
次に,『市政提要』より野犬狩りに関するものを抜き出しておく。
正徳元年卯七月二日
仰せ渡され候は,殿様御鷹御持ちなされ候に付,夜据(夜の鷹狩)などこれあり候。町方に犬おり申し候ては心もとなく候間,島へやり町方に戻り申さざるようにいたす可く候。御鷹に付き犬を島へつかわし候と取沙汰これなきように心得申す可く一度に数多くつかわし候はば目立ち申す可く候間,少しずつ船便次第につかわし申す可く候。
正徳三年六月九日
御家中(侍町)在町(町人町)共に放し犬多く,ままには無主の犬これあり,害をなし候ように聞き及び候,近在の穢多に申し付け放れ犬を捕らせ,取り候はば後は穢多次第に仕る様に申付候
享保十九年五月二十四日
此度犬捕え鹿久居島へ遣し候義,御家中にて穢多捕え候犬の分は御郡方(郡奉行)より船申し付候て遣し申す筈にて候間,町方にて捕え候犬の分は前の通り町方(町奉行)より船にて遣し候様にこれある可く候。尤も鹿久居島案内の小舟は御郡方より申し付く由に候。
これらは一部であるが,これを読むと,殿様が狩りに使う鷹を飼育していた出石町の鷹匠たちからが,野犬に鷹が傷つけられるのを恐れて願い出たことが主な原因であったことになっているが,病犬などが人に噛み付くことが多く,一般民衆も野犬に苦慮していたからであろう。捕まえた犬は日を定めて旭川河岸の花畠にある船積み場に集められ鹿久居島に送られた。
この史料から,野非人や帳外者などを追い払うのと同様に,野犬狩りを担っていたのも「穢多」身分であったことがわかる。
4 藩有林
江戸時代後期,島の御林(藩有林)は,日生・寒河・福浦(現・赤穂市)三か村の請山であった。毎年入札で用益料を払えば草木が伐採できた。松材などの売上代金は4割を藩に納めて,6割が三村へ下付された。赤穂の塩田が近く,大量の燃料が必要であったため,盗採の心配から役人の派遣を求めている。藩は山廻り役を定めて「鹿久居島御番所」を設けている。
明治四年(1871)廃藩後は国有林に移っている。明治36年(1903),全島は沿岸漁業への効果から魚つき保安林になっている。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。