喜田貞吉と米田庄太郎
奈良の吉田栄治郎氏から送っていただいた研究紀要や史料集の中に,徳島地方史研究会の『史窓』に寄稿された「喜田貞吉と米田庄太郎」という小論があった。以前に書いた一文の中で米田庄太郎氏について触れたこともあり,この小論を興味深く読ませていただいた。
吉田氏は,喜田貞吉が後輩である小林庄次郎との土蜘蛛論争を契機に部落問題に関わるようになり,小林の主張する部落の異民族起源説を論破するために部落の「境遇論(落伍者論)」を展開したと考察している。
当時の喜田は部落を「自ら自己の由来を解せず,他亦之を詳にする」ことのできない存在であると考え,「彼等を同化せしめ,何等区別することなき国民たらしめんとする」ため,つまり彼らを日本民族の一員として処していくためには,「経世家・教育者が,高圧的に之を区別すべからずと命じ,説明的に人道問題を云為するのみにては,到底完全に其の目的を達する」ことはできないと考えていた。
そして,彼らを「日本民族の一員として処していくためには」,
必ずや更に其の根本に遡て,彼等が何が区別せらるゝに至りしかの顛末を明にし,彼等自ら之を覚知して自暴自棄の念を除き,他亦之を了解して軽視疎外の挙を去るに至らざるべからず。
ことが必要であり,それは
一に懸りて歴史家の双肩にありと謂はざるべからざるなり。
と高らかに宣言する。
そして,喜田の部落問題認識は「触穢禁忌の社会的迷信」である社会的原因に基づく「落伍者」論であり,その主たる原因を肉食の風習,皮革生産に求めたものであると論じている。だが,吉田氏が問題としたのは,喜田が大正十三(1824)年に東北帝国大学に転じて以降,部落問題に関してほとんど発言しなくなる理由,つまり喜田に境遇論の限界を認知させた事実についてである。吉田氏は,その理由を米田庄太郎との邂逅に求めて考察していく。
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喜田貞吉と米田庄太郎は,ほぼ同じ時期に京都帝国大学文学部講師になり,大正九年(1920)七月に同時に教授に昇格し,ほぼ同じ時期に大学を去っている。同じ大学の文学部に15年間に渡って所属していたのである。この二人の間にどのような交流があったか,互いの著述物にはほとんど書かれていない。一方は部落問題を研究する歴史学者,他方は部落出身の社会学者であるにもかかわらずである。吉田氏は,この二人の関係から,喜田貞吉が自分の部落認識・部落解放論(「劣敗者」「落伍者」論)の限界を知るに至ったと推察する。
喜田と米田の到底交わることのない学歴と個性と風貌と能力。一方は部落出身であることを積極的にはカミングアウトしないが決して隠そうとはしない,土俗を早くに捨て去った西欧風の優美な紳士であり,エリートの雰囲気を色濃く持った人である。他方は部落に生まれなかったが部落の歴史に興味を抱いてその解明に積極的に取り組んだ,阿波の土俗を色濃く残した,野人の風貌を持った人である。このあまりに対照的な二人が二人だけで出会う機会があったかどうかは今となってはわからないが,もし二人だけになることがあったとして,さらに二人の間に部落問題をめぐる会話があったと仮定して,一体いかなることが話されたのか興味深いものがあるが,それは双方に決して心温まる会話でなかっただろうことだけは断言してよいだろう。
…そして,想像をたくましくすることが許されるなら,おそらく米田は,部落を「劣敗者」「落伍者」一筋で綴ろうとする喜田を許せなかっただろうと思うし,喜田にとって米田は,自身が築き上げた「劣敗者」「落伍者」論では到底理解不能の,したがって一種愉快ではない存在に映ったと思う。
吉田栄治郎氏は,喜田の大学以来の親友である京都帝国大学文学部教授の原勝郎が「おれは家老の出身である。米田氏のようなエタと席を並べることはごめんだ」と発言して米田の教授昇格に強く反対したことを知り,自身の「境遇論」の限界に気づき,部落差別が単に境遇によるものではなく,「同胞解放」が境遇改善によって実現するものではないことを知ったのではないかと考察されている。原勝郎だけでなく教授会で反対が多かったという桑原武夫氏(「人間の戦い」)や木村京太郎氏(「米田庄太郎博士を偲ぶ」)の記述からも,他の教授たちの認識や思考が当時の社会認識を反映した部落差別容認の立場が大勢であったと考えられる。
私も吉田氏の考察と同じで,喜田自身に大きな影響を与えた事件であったと考える。塩見鮮一郎氏の書かれた『喜田貞吉―喜田貞吉と部落問題』を読んで,喜田の人生と境遇,一途で真摯な探求心からも了解できる。
ただ,私は米田の存在による喜田への影響よりも,当時の社会認識を反映した京都大学教授会を問いたい。率直に書けば,今なら誰も原勝郎のような発言はしないだろうし,進歩的知識人の自負心からも部落問題への理解を表明して反対はしないだろう。(麻生太郎のような俗物もいるが)
これは許すべからざる人間蔑視である。ところで問題は,こうした非人間的決議をした当時の京大文学部はよほどつまらぬ学部だったかというと,学問的には当時の日本をリードしていた一流学者の集まりだったという事実である。
(桑原武夫「人間の戦い」)
このことに関して,高橋和巳は次のように述べている。
たしかに,プロフェッショナルな知識人というものは,専門領域いがいのところでは,その生活感情や社会感覚を意外とその時代の庶民の保守的な,つまり無自覚な部分と共有している。いや,それは意外ではなく,学者も専門領域外のところ,たとえば政治意識や趣味においては大衆の一員にすぎないから,そのこと自体はなにも不思議ではない。ただ,自負が専門業績から自己の地位に意識内部ですりかわるとき,旧套的感情までが権威あるもののごとく,語られ,客観的には児戯に類する言説として露呈するというにすぎまい。
…しかしながら,たとえ内部のことにもせよ,元来は専門領域の知的進化のための条件として国民から供託された身分保証や相対的自治権を,利益追求や自己保身の特権と化したり,社会的責任制をもつ公人としての論議の場を個人の偏見やボス根性を正当化する場としたりすれば,社会の学者に注ぐ目は,大きく変わるだろうし変わらざるをえない。
(高橋和巳『わが解体』)
高橋和巳は,この奇妙な議決を通して象牙の塔の秘密性を「公的な場での言動であるかぎり,教授の公的責務である学問研究とその次代への伝授のあり方との相関関係を問われてしかるべき責任性をもつ」と指弾する。だが,むしろ原勝郎教授や他の教授に問われるべきは,部落問題に対する認識の欠落ではないだろうか。
まだ部落解放運動も強力には存在せぬ時代のことであり,桑原武夫の一文は,晩年の淋しげな米田氏の散歩姿を点綴しておわっているのだが,部落出身者に対する差別を露骨に口にしたH教授の意識のあり方とともに,一種欺瞞的妥協案によって,教授会の体面を保ったその構成員の精神構造にも,いつかは悪の存在したことを指摘せざるをえない。
(高橋和巳 前掲書)
この高橋の一文にあるように,大学の教授会の秘密性や学者の良心の問題以上に,私にとっての課題は,明治から大正期にかけての部落問題に関する「庶民」「大衆」が共有していた社会認識・社会意識である。原勝郎の発言や,米田庄太郎の教授昇格に反対した教授たちが持っていた部落に対する差別意識の社会背景・時代背景を考察したい。なぜなら,個人の思考や認識を批判し,その人格や人間性を非難するよりも,その個人が空気のように体内に蓄積した社会認識こそを問い直さなければ,部落問題の解決への展望は見出せないと考えるからである。