松本良順と弾左衛門(1)
『論集 長崎の部落史と部落問題』(長崎県部落史研究所)に収録された姫野順一氏の論文「貴賤観と身分」に「松本良順による賤称廃止の画策」と題した「付録」が掲載されている。これは,松本の自伝的回顧談である『蘭疇』(明治35年:『明治文化全集第27巻科学編』所収)から弾左衛門との関係部分を抜粋したものである。
従来の見解では,弾左衛門の「身分引上」については松本良順の果たした功績が大きかったと説明されてきた。これに対して,批判的に検証しているのが,畑中敏之氏である。畑中氏は,論文「身分引上と醜名除去 -『弾内記身分引上一件』の再検討-」において詳細に考察している。
ここでは,松本良順の回想録をもとに,当時の民衆の意識を考えてみたい。
松本良順(1832-1907)
天保3(1832)年,下総佐倉藩医師佐藤泰然(のちに順天堂病院を開く)の次男として生まれ,のちに泰然の親友である幕医松本良甫の養子となる。安政4(1857)年,幕命により長崎へ遊学し,来日していたオランダ軍医ポンペの元で西洋医学を学び,助手としても日本初の洋式病院である長崎養生所の開設などに尽力する。江戸に帰ると,西洋医学所の頭取となり,幕医として身を投じる。上京した際には,かつてから親交のあった近藤勇を訪ね,屯所にて隊士の回診を行うとともに,隊の衛生管理指導も行う。戊辰戦争勃発後は,江戸に引き上げてきた近藤らの傷病を診察。沖田総司の死を見届けたとも言われている。西軍が江戸に攻め込んでくると,門弟数人を引き連れて会津に入り,土方歳三の戦傷を治療した。また,日新館において診療所を開設し,会津藩の医師らとともに負傷者の治療にあたった。 幕府方についたため投獄されたが,のちに兵部省に出仕し,山県有朋の要請により陸軍軍医部を設立し,初代軍医総監となる。また,勅撰により貴族院議員となり,男爵に叙される。享年76歳。
松本良順を主人公とした歴史小説としては,司馬遼太郎の『胡蝶の夢』がある。『胡蝶の夢』は穢多頭の浅草弾左衛門を幕府の奥医師である良順が診察するくだりが事細かに描かれているように,江戸時代という身分制社会の不合理を描くことに司馬の力点がおかれている。
Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort(1829-1908)
幕末期に来日したオランダ海軍軍医。ベルギーのブルージュ生れ。
1857年(安政4年)第二次海軍伝習の医学伝習教官として長崎に到着,松本良順ら医学生にはじめて組織的な西洋近代医学教育を行う。61年(文久元年)日本最初の西洋式病院長崎養生所を創設した。62年帰国後,幕府派遣留学生を世話し,74年(明治7年)駐露公使榎本武揚の外交顧問を務めた。著書に「日本滞在見聞記」がある。
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頃日浪士と称する者数十人,芝三田なる薩摩邸に集合し,ここを根拠として毎夜市中に出でて富家を却掠すること甚だしく,ために点灯後は市中みな固く鎖して,外出する者なく,往来寂莫を極めたり。
于時浅草山谷町の町医に富士三哲ろ云う者あり。常に弾左衛門が家に出入りす。一日来たり告げて曰く,薩邸に潜匿集合せる浪人等,近来弾左衛門が家に来たり説いて曰く,汝が祖先は鎌倉府の遺子にして,由比ガ浜の長吏たり。然るに何ぞ,江戸幕府の下に屈従し,禽獣視せられ,甘んじて公衆の軽侮を受け居るや。方今我が薩州侯,大将として外国人を鏖殺し,幕府を顛覆し,上天子を奉戴し,下万民を撫育し,日本の神国たる稜威を海外に輝かさんとす。速やかに我儕に従い,共に尊王の義挙を扶けよと。これを口実とし脅迫して黄金を貪らんとす。初めはこれらの言をさのみ意とする者もなかりしが,近来配下の中にややその義に同じ,事を共にせんとする者あるが如し,と。
予これを聞くや,怫然憤慨に堪えず,将軍膝下の地,奴輩をして跳梁に任かすとは何事ぞや,と。すでにしてまた謂えらく,世に穢多の臭名を付し,これを四民の外に置くことはすこぶる天理に背けり。ひとしく人なり。何ぞこれを人外視するの理あらんや。これ畢竟奴輩をして藉りてかくの如き言をなさしむる所以にして,幕府の失なり。恥辱と云わざるべからず。好し,我これを当局者に説き,その臭名を除き,彼等の脅迫を免がれしめん,と。即日これを監察に告げ,謀るところあらんとす。然るに聴く者みな冷淡にしてさらに意に介せず。曰く,かの賊の如き,不日酒井左衛門尉の手にてこれを縛すべし,君等憂慮するなかれ,と。
これよりさき庄内藩酒井家は,江戸市内の警戒を命ぜられ,藩士隊をなし,鎗剣を携え,市街を巡邏す。これがために少しく賊勢を滅ずるも,江戸の広さ,なお四方に出没して強奪を事とす。因ってさらに旗下重禄の者某々および小諸侯某々に命じて,共に警衛をなさしむ。
然れども賊等これを意とせず,ただ庄内藩を恐るるのみなり。
この日記の前半,薩摩藩浪士が弾左衛門に近づいて述べる「禽獣視せられ,甘んじて公衆の軽侮を受け居る」の言葉は,弾左衛門を倒幕の側に組するよう誘い,金品を拠出させるため,幕府の今までの扱いの非礼を強調することで自分たちの側を是とする論法ゆえに幾分か誇張されているとは思うが,それでも,江戸時代において「穢多」身分がどのように周囲や社会から見られ扱われていたかを伺い知ることができる。
「禽獣視」とは,「人外視」と同義で「同じ人間」ではないの意味合いであり,「視」とは「そのように見る・みなす」の意であるから,自分たちと「同じ人間」ではないから「禽獣」とみなすという周囲・社会の貴賤観を象徴する表現である。「穢多」は,自分たち(四民)と「同じ仲間・集団」(公衆)ではないから「四民の外」に置かれているのだという認識である。「四民」(公衆)=人間という認識が江戸時代の一般的な社会通念であり,その社会通念から「穢多」を「四民の外」「禽獣」とみなしているのである。このことから,「穢多」という身分呼称が「臭(醜)名」であると周囲も社会も認識している理由も推察できる。
江戸時代は身分別の「世間」に縛られた時代である。「世間体」という言葉が残っているが,「世間」とは「社会。世の中。また、世の中の人々」の意であり,「体」とは「外から見た物事のありさま。ようす」の意である。つまり,「世間体」とは,社会の様子であり,その社会にふさわしいあり様を意味する。この「世間」から「穢多」は「醜名」とみなされていたのであり,別の「世間」(社会)の人間であると認識されていたのである。つまり,他の身分呼称と同様,「穢多」は単なる身分呼称ではなく,「穢多」という身分に付随する「役務」や「存在形態」などすべての総称として認識されていた。
山本博文氏は『武士と世間』の中で,次のように延べている。
江戸時代の藩や武士にとって,「世間」の批判を受けることは致命的なことだったのである。
近世の厳しい「世間」は,中世末期から近世に至る長い間に形成されたと考えられるが,最大の要因は,統一政権が成立し流動的な社会が固定化されてきたことによると考えられる。そのなかで「世間」が,現在の我々が使う「世間」とほぼ同じものになってきたのだろう。武士にとっての藩社会や,町人や農民にとっての町や村といった共同体社会が成立するだけでなく,幕藩体制のもとで,日本全国どこであってもそれぞれの「世間」が付いて回るのが近世社会の特徴だった。
つまり,近世社会においては,現在以上に「世間」という価値観や価値基準が重視され,人々の行動や認識に深く関与していた。
それに対して,松本は「穢多」が置かれている状況や社会通念に対し,それは「天理に背」くことであり,人間は誰(どんな身分)であっても「ひとしく人(間)」であり,「人外視する」理由などないと言っている。さらに,これは幕府の失態であり,恥辱であるとまで言い切っている。
そして,松本は幕閣の担当者にこのことを進言するのが,その反応は「冷笑にして」心に留めてもくれなかったと記している。それが当時の社会通念であったことを考えれば,松本の人権意識や人間観は進歩的であったと思う。
松本が問題(目的)としているのは,弾左衛門の置かれている社会的立場(賤民)であり,その証である「臭(醜)名」を除去することと,薩摩藩浪士など尊攘派浪士からの脅迫を防ぐことである。
幕府側の松本であるから,尊攘派に弾左衛門が味方して資金と兵力の援助をすることは何としても阻止したいところであったろうが,弾左衛門との関わりによって次第に認識を変えていったとも思うが,松本のような人間がいたことが社会を変革していくことにつながっていったと考える。また,これは松本だけではなく,当時にあって,そのような認識と考えの人間が徐々にではあっても増えていったとも考えることができる。
このことは,弾左衛門など被差別民の立場からだけでなく,一般民衆の側からも「賤民制」に反対する人間がいたことの証左であり,互いの努力によって「賤民制」は解体されていったのである。