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「渋染一揆」原典史料:解題

『岡山部落解放研究所紀要』(1988 第6号)「渋染一揆関係史料集」には,原史料(原文書)を「解読し活字化」した「原文(釈文)」と,それを「現代語訳」したものが収録されているが,解読の段階(活字化)での誤訳と意訳が見られ,また現代語訳についても十分な統一がなされておらず意訳も多い。このことは,岡山部落解放研究所の若林前所長や好並現所長,「渋染一揆研究班」のまとめ役をされた故寺田憲生先生などと全面改定の必要について話し合っていたが,寺田先生の急死などにより計画されることなく現在に至っている。

特に,県同教の部落問題研究委員会(解放令反対一揆教材化研究)にて同じ研究員として多くの教示をいただいていた寺田先生の急死は,私にとって突然のことで言葉もなかった。これからもっといろいろなことを教えていただこうと思っていただけに,悲しみは深すぎた。いつの日にか,先生の遺志を引き継ぎ,本書の改訂版を出版できればと思っている。

原史料(原文書)のうち,『禁服訟歎難訴記』は個人所蔵であるが,他のほとんどは岡山大学中央図書館に保管されている。『屑者重宝記』の原史料は所在不明である。本書に収録されている原史料の複製本やコピーは「渋染一揆資料館」に展示されている。

私は,『禁服訟歎難訴記』の所有者(作者である豐五郎氏の子孫)に許可をいただき原史料(原文書)をデジタル(画像)記録等に残させてもらった。
なお,岡山県同教が発行している『「渋染一揆」関係教材資料集』『「渋染一揆」現地研修資料』には,『禁服訟歎難訴記』の「別段御触書」部分と『屑者重宝記』の「歎願書」部分の原文が転載されているので,活用にしてほしい。

私も今までに部分的ではあるが,自分なりに原文から解読・活字化している。いつの日にか全文を解読・活字化して現代語訳したいと思っている。
現在,本書は入手しにくい状況にあるため,研究や教材化の一助となればと思い,本書より重要史料と考えられるものについて「原文」と「現代語訳」を抜き出して対照表の形式で転記した。今回は本書よりそのまま転記(書き写)したが,上記したように誤訳や意訳などもあるので,やがては『禁服訟歎難訴記』だけでなく他の史料も原史料と対照しながら解読・修正を行うつもりでいる。

また,他にも重要な史料があるので,本書などから研究や教材化に必要と思われるものに関しては転載していくつもりでいる。本書の「はじめに」にも書かれているように,本書発刊の趣旨は「同和問題の解決」を目的として「すべての教職員が同和教育に取り組むことが要請されている」ことから「関係者の便宜に供しようと考えた」ことにある以上,多くの研究者や教職員が活用できることが望ましいと考えている。

『御倹約御触書』(安政二年:1855年)
『御倹約御触書』は「味野村 控」として『紀要』に所収されているが,同じ内容の史料が岡山大学中央図書館に多く所蔵されていることから,安政二年に出された元々の「一統御倹約御触」(29ヵ条)であることはまちがいない。
「別段御触書」は上記の『御倹約御触書』の中の25~29ヵ条であるが,『禁服訟歎難訴記』『屑者重宝記』『穢多共徒党一件留帳』には大庄屋・村役人の手を経由する中で,補足説明として追加・加筆された?内容も記されていて,しかも微妙に記述に違いがある。これらを比較・考察する必要がある。
『御触書』(天保十三年:1842年)
「渋染一揆」の直接の契機となった『御倹約御触書』を遡ること13年前に出された「天保の御触書」は,『御触書写』(菅野村 多賀治 控)と『御取締御触写』(藤戸祐太郎 控)
『御触書写』(清水村)が『紀要』に所収されている。『禁服訟歎難訟記』にはこの触書を歎願によって撤回させたと書かれており,その経験に基づいて今回も歎願運動によって撤回を要求したと考えられる。
『御触書写』には「渋染着用」の条項はない。撤回されたためか,記載忘れか。『御取締御触写』には記載がある。また,『御触書写』(清水村)では「附書」として【着類棒嶋可為事】【衣類浅黄空色無地無紋,羽織・脇差差留 但捕りもの之節ハ脇差指免候事】の条文がある。これについても検討する必要がある。
『歎願書』
『禁服訟歎難訴記』には,①最初の寄合 庄太郎(一日村)作 ②神下村助三郎宅にて豊吉(国守村)作→連判の歎願書に決定 ③役人たちからの厳しい催促に対して各村ごとに書いた歎願書が記述されている。それぞれに若干の相違があるので,経緯と背景を合わせて考察する必要がある。
『屑者重宝記』には豊吉(国守村)作を連判の歎願書に決定したことは記載されているが,他の『歎願書』については同様の経緯について書かれてはいるが『歎願書』自体は記載されていない。
『御倹約御触書』味野村 控
岡山藩が郡奉行・大庄屋(村役人)宛に出したもので,同様の触書が多くの村方文書に残されている。本史料は味野村に残されていたものである。条文中の24ヵ条までが全領民を対象とされたもので,25ヵ条~29ヵ条が特に穢多身分に対して出されたものである。
出典は「荻野家文書」歎願書(安政三年)
『禁服訟歎難訴記』よりの抜き書き
『禁服訟歎難訴記』では,最初の寄合のときに庄太郎(一日村)が作成してきたもの,それを参考にして各村が作成してくるとして,その後に集まった神下村助三郎宅の寄合で豊吉(国守村)が作成し総連判の歎願書に決定したもの,その後に村役人から調印の催促が厳しくなり各村ごとに書いて提出したもの,これら3通の「歎願書」が記述されている。本史料は,そのうち総連判の「歎願書」を転載した。
『屑者重宝記』よりの抜き書き
『屑者重宝記』では,豊吉(国守村)が作成し総連判の「歎願書」に決定したものしか記述されていないので,それを転載した。
この両者では,条文の順序が違っていたり,内容的にはほぼ同じでありながら表記や表現がまったく違っていたりする。両作者の記憶違い(「歎願書」の原文が手元になく,記憶が曖昧であるのか),あるいは数種類の「歎願書」が作成されたので間違えているのか不明である。
御触書(天保十三年)『御触書写』菅野村多賀治 控
『歎願書』の中に「歎願によって撤回させた」とある天保十三年の触書である。『御触書写』には「渋染着用」の条項はない。それまでに岡山藩で触れ出されたものを再録する形になっている。
出典は「坂野家文書」
『御取締御触写』藤戸 祐太郎 控
上記の『御触書写』(菅野村)と同じ年に出された触書であるが,内容(条項)に異なるものがあり,条文数も少ない。ただし,「無紋渋染藍染の衣類」着用の命令に関する条文がある。
出典は「日笠家文書」
別段御触書
『禁服訟歎難訴記』よりの抜き書き
上記の『御倹約御触書』のうち,後段の25~29ヵ条が,いわゆる「別段御触書」と呼ばれるもので,触れ出しの時期が遅れている。
『屑者重宝記』よりの抜き書き
『岡山部落解放研究所紀要 第6号』に収録されている「渋染一揆」関係史料の概略について「解説」をもとに簡略にまとめてしておく。
1 「禁服訟歎難訴記」(原題「穢多渋着物一件」)
渋染一揆参加者の手によって書かれた記録である。原題は「穢多渋着物一件」であったが,粘紙をして「禁服訟歎難訴記」と改題されている。
作者については神下村の豊五郎あるいは笹岡村の良平とする説があるが,豊五郎の子孫が所蔵しておられることや,本書(紀要)に収録されている寺田憲生氏の論考(「『禁服訟歎難訴記』の作者について」)などから豊五郎の作と考えられる。
なお,豊五郎は,神下村の判頭として一揆の指導をおこない,判決直前に逐電している。また,自宅で手習師匠もしていた。
この記録は,五七調を基調に書かれた上下二巻の和綴じ冊子である。上巻は,一揆の歎願運動までの経緯について,下巻は強訴運動の経過,事後の取調について,牢内生活の状況などが詳細に書かれている。
内容としては,城下周辺の動きが中心であり,また脚色や誇大的記述,誤記もある。しかし,一揆指導者の直筆であること,また客観的な記述であることから,一揆の全容を知るためには貴重な歴史的史料である。
2 「屑者重宝記」
国守村の判頭豊吉の書いた一揆の記録である。現在,原本の所在は不明である。
豊吉は,一揆の前半,歎願運動の段階で竹田村の紋之介とともに運動をリードした。惣連判の訴状も豊吉の筆によるものである。
この記録は,客観的事実の経過を克明に記しており,資料的価値は高い。ただし,豊吉は強訴段階では指導的立場を降りており,強訴には参加していないため,後半部分は後からの「聞き書き」である。
3 「穢多共徒党一件留帳」
和気郡藤野村の大庄屋万波七郎右衛門の組下である藤野・稲坪・森の三ヶ村(被差別部落)の一揆への参加に関する動向を記した報告書である。
この記録の前半は,一気に参加した三ヶ村の動向が詳細に記されており,後半は藤野村に残留した者たちをどのように阻止したかを記している。「禁服訟歎難訴記」や「屑者重宝記」に詳述されていない備前東部の動向を知るうえで,また農村部の村役人・被差別部落民の人間関係や意識状況を知るうえでも貴重な史料である。
作者については下原村の名主高原国平であり,彼がまとめ,浄書して万波七郎右衛門に提出したと思われる。本史料は国平の書いた草稿である。
4 「御野郡竹田村穢多紋之介等の口書」
岡山藩の公文書で,一揆後に指導者に対する藩役人による取り調べがおこなわれた際の十六人の供述書である。いわゆる権力側の史料であるが,一揆指導者の意識や行動を個々に知ることができる貴重な史料である。
5 「御倹約御触書写」味野村控
安政二年の「一統御倹約御触」二十九ヵ条の内容と,各村々の対応(どのような手続きで請印を提出したか)を知ることができる。
6 「年々御触書留帳」清水村
和気町藤野・稲坪・森の三ヶ村の一揆参加者に対する処罰の覚書である。この三ヶ村の一揆への参加状況を知ることができる史料である。
7 「御請書上」
安政二年倹約令を徹底させるためにとられた支配層の動向を知ることができる。
8 「穢多結党」
安政二年倹約令を徹底させるためにとられた支配層の動向を伺い知ることができる史料である。
9① 「御触書写」菅野村 多賀治控
天保十三年に触れ出された倹約令の内容を知ることができる。この触書のうち穢多身分に出された「別段御趣意」を歎願によって撤回させた経験があり,これに基づき,今回も歎願運動によって撤回を要求した。
なお,本史料には,渋染着用の条項はない。
9② 「御取締御触書」藤戸 祐太郎控
天保十三年に触れ出された倹約令の内容を知ることができる。9①(「御触書写」)には渋染の条項はないが,本史料には渋染の条項がある。

上記史料のいずれも「渋染一揆」を研究する際に貴重な原史料である。特に,一揆の指導者である豊五郎および豊吉の書き残した「禁服訟歎難訴記」「屑者重宝記」は,全容を解明するうえで基本史料である。また,藩側の史料である「穢多共徒党一件留帳」「御野郡竹田村穢多紋之介等の口書」も重要な史料である。前者と後者では立場のちがいが,「渋染一揆」の要因に対する意識のちがいや認識のちがいとなっており,江戸時代の身分社会を考察するうえでも重要な史料となっている。両者の相違を比較検討することを通して「渋染一揆」の歴史的意義も解明することができると考える。

従来の「渋染一揆」に関する読み物教材や小説本,教材資料には,近世政治起源説や階級闘争史観(唯物史観)など特定のイデオロギーの影響を強く受け,主観的脚色や誇大表現が多く見受けられ,必ずしも原典史料に忠実であるとは思えない。また,独自の解釈によって「渋染一揆」の実像とは大きく懸け離れた歴史像を描いているものもある。
原典史料に基づくといっても,それを読み解く個人の主観や歴史認識,歴史観等によって史実そのものが歪んでしまうこともある。

本書の序文では「…本史料につきましては皆様の研究,学習,教材などに広く活用されることを望むもの」であると述べられ,また「はじめに」においても,次のように本史料の活用を期待する趣旨が述べられている。

…… 部落史研究の動向を踏まえ,教育現場においても,輝かしい部落解放の闘いとして「渋染一揆」が取り上げられさまざまな形で教材化・教育実践が進められていることは喜ばしいことと言わねばならない。
しかしながら,こうした,教材化,教育実践の中には,まま,原史料に当たっていないのではないか,また,原史料の理解が不十分であるのではないかと思われるものが見受けられる。
言うまでもなく,歴史学は史実に基づき,歴史の真実を明らかにし,民衆の解放への歩みを教訓化するものでなければならない。
…… 教育現場に於いても,すべての教職員が同和教育に取り組むことが要請されているところである。部落史学習も独り歴史教育専門教師にのみまかせるべきではないと考えられる。
以上の観点から,本書では,渋染一揆関係史料の大部分を一冊に収録し,併せて現代語訳を付することによって,関係者の便宜に供しようと考えた次第である。これらのことから,本書発刊に携わった関係者の方々の願いに応えるためにも,現在入手が困難な本書に所載されている史料を公開し,多くの方々が活用できるようにすることは意義があると考えている。

「渋染一揆」に関する教科書記述も,部落問題に関する記述と同様に,改訂の度に簡略化されている。それに呼応するかのように,教育現場において部落史及び部落問題学習が縮小化・形骸化されている。本書が発刊されて30数年が過ぎているが,この史実から学ぶべきものは多いにもかかわらず,その間の時代の変化は,「渋染一揆」を過去の遺物であるかのように押し流している。実にさみしく,憂うべき状況と思わざるを得ない。今一度,新しい視点で「渋染一揆」が再考されることを期待する。


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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。