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財政窮乏の要因:参勤交代と手伝普請

荒木祐臣氏の『備前藩 殿様の生活』を参考にまとめておく。

幕府は大名の石高によって供立の人数を規制した。たとえば享保六年(1721)の「徳川禁令考」によると,二十万石以上は馬十~二十騎,足軽百二十~百三十人,中間人足二百五十~三百人となっているので,最大でも供立の数が約四百五十人位である。しかし,見得や格式を重んじる大名であるから,幕府の規制数をはるかに超える人数を連れることになり,その上に,荷物運搬のため各宿駅で臨時に雇い入れる人馬の数も相当数であったため,32万石の岡山(備前)藩の参勤交代ともなると,その供立の人数も600~700人程度であった。この行列が岡山-江戸領地間約700㎞を約20日の日程で徒歩旅行を行ったのである。

まず行列の先頭に,先払い(道見)が「下に下に」と触れ歩き,続いて先乗騎馬二人,弓二十張二十人,手替十人,矢箱二荷四人,槍二十本二十人,手替十人,奏者二人,乗掛馬一人,沓籠中間一人,引馬三頭三人,沓籠三ツ三人,弓二張四人,かつぎ皮四人,弩瓢四人,台笠二人,衣笠二人,長刀二人,歩行十四人,鑓十人,挟箱二ツ四人,御駕籠供侍騎馬十人,仝上歩行三十人,幕串一箇二人,長持三個六人,具足櫃二個六人,召替馬三頭六人,小納戸長持四個十四人,風呂桶一荷二人,水田子四荷四人……等々と1㎞にも及び大行列である。

池田光政は,寛永十九年(1642)~寛文八年(1668)までの二十六年間に行った参勤では,岡山-大坂間はいつも船(八幡丸・白鴎丸など)で二日間,大坂より陸路で江戸まで十六日間を要して往来していた。彼の子である綱政の宝永元年(1704)まで続き,その後は陸路,播磨路をとって参勤している。海路を陸路に変更した理由は,御座船(八幡丸または白丸)の運航には十艘の曳船が要り,一艘の曳船の加子(水夫)が四十人,併せて四百人もの労力が必要であり,この日当として一人一日米一升二合を与えていたために莫大な経費を要し,その人件費を節約するために陸路に変更したのである。

岡山より江戸までは,山陽道-西国街道-東海道を通り,十九泊二十日で到着している。一日の行程は少なくて六里,多くて十一里であった。この強行軍も宿泊費を少なくするためであった。大体七ツ時(午前四時)に起床し,六ツ時(午前六時)に拍子木の合図で出発し,晩は五ツ時(午後八時)到着と,一日十二時間近く歩いたわけである。

参勤交代にかかった費用は,文政十一年(1828)の場合,「二百十四貫四百匁」であった。当年は,銀八十七匁で一石の米が買えたので,この道中費を米に換算すると,二千四百四十二石であった。米一石を一両として,1両を約15万円で計算しても,3663万円になるが,実際はもっと多かったと思われる。鳥取藩の文化九年(1812)の帰国時の費用は千九百五十七両であったが,人足代が八百四十七両,馬使用の駄賃が四百九十二両,備品などの購入費用が三百八十七両であったから,宿泊代を随分と節約していることがわかる。天保期の加賀藩の記録では金千七百二十五両,銀十五貫匁,予備金三百両を旅費として持参していた。道中費は藩札が使えないため,すべて現金での支払いであったからだが,相当の重量であったことは想像にむずかしくない。

参勤交代の道中風紀の取締は,厳重であった。同行の藩士が不祥事を起こすと,藩の名誉にかかることになるため,道中法度を定め,道中目付をおき,供立の藩士の行動には常に注意をしていた。池田忠雄が寛永元年(1624)に発布した道中法度のうち重要な項目を抜粋してみる。

一,宿の割宛については,奉行の割宛を有難く承知して,宿屋の善悪について,とやかく申たり,又渡された宿札を交換して,割宛の宿を勝手に変わることは相ならぬ。
一,宿賃については,主人と馬は八文宛,従者は一人四文宛の支払とせよ。但し,薪まで持込む時は,右値段の半値を支払い,宿屋の亭主の請取状をちゃんと取っておけ。
一,宿屋においては,上下の身分をとわず,静粛を旨とし,大声で騒ぐことは禁止する。
一,道中で他所者,町人などと争い事をしたときは,理非によらず,当藩士の曲事とする。
一,途中で脱藩者など出た時は,直ちに御用老に届け出よ。
一,博奕,其外,何のようなものでも,勝負事は一切禁止する。
一,宿泊時は,小唄を唱ったり,尺八を吹いたりする事一切禁止。又,遊女を宿に引き入れることなど言語道断である。
一,宿泊時は,一切外出禁止。必要やむ得ない時は,外出許可証を貰え。外出ができないため,宿の窓越しに買物などする者もあるが,これも一切禁止。


大名は参勤後,1年間弱は江戸藩邸で生活する。藩財政の窮乏化の要因となった江戸での生活について,荒木祐臣氏の『備前藩 殿様の生活』を参考にまとめてみる。

慶長初年(1596)から文政年間末期(1829)に至るまで,備前藩は江戸市内に十八ヵ所の屋敷をもっており,これらは上屋敷・中屋敷・下屋敷として使われている。上屋敷は参勤中の藩主が一か年生活する場であり,江戸詰(在府)藩士の上層部もここに詰めており,江戸における備前藩の中枢となっていた。この上屋敷があった場所は,現在の皇居の東,和田倉門の南寄りであった。この付近は江戸初期より有力大名の江戸屋敷が集まっていたところであり,大名傍とか大名小路とか呼ばれていた。備前藩邸は通常,大名坊本邸とか丸の内屋敷,あるいは内堀の水が和田倉門の東北で道三河岸に注ぐ,その水の落ちる姿が竜が水を吐く姿に似ていたので竜の口屋敷ともいわれていた。

その規模は,屋敷の広さは東西107間,南北70間,総面積7490坪に及び,東面して桃山風の豪華な表御門を持っていた。表御門を入ると,玄関,表詰所,御留守居詰所,御用部屋など大小数十の御座敷,御居間が廊下伝いに続き,一番奥の庭園には能舞台が二つ突き出しており,その先には立派な池庭も造られている。屋敷全体の周辺は高い塀に囲まれ,家臣の長屋が六十軒塀沿いに内側にそれぞれの玄関を持って並んでいる。江戸家老や留守居役など重臣の独立家屋も建っている。

この備前藩上屋敷は,元和元年(1615)池田利隆が関東御下向になった当時からであったらしく,参勤交代が義務化されて以降,歴代藩主は幕末までここで暮らし,各正室もここに常住した。この備前藩上屋敷は,江戸時代を通じて五回の火災に遭い焼失している。その毎に再建されているが,建築費用も大きな負担となっていた。
備前藩上屋敷(本邸)の前に,同じく備前藩邸として使用された大名坊前邸または向屋敷といわれた東西108間,南北55間,総面積5940坪の屋敷があった。これは,もと筑前黒田家の邸宅であったがものを譲り受けたもので,本邸とこの向屋敷は大路の上を跨ぐ廊下で直接に連絡していた。居館の規模は本営より小さいが,その塀沿いには家臣137人の長屋が並んでいた。

備前藩中屋敷は,隅田川畔の築地にあったもので,築地屋敷ともいわれていた。これは,東西80間,南北60間,約4800坪の屋敷で,中央の居館を取り巻いて,家臣21人の長屋住宅があった。この築地屋敷は,歴代の世子(世嗣)が生活する場であり,周辺の長屋住宅はその養育係などの居宅であった。上屋敷が焼失したときには,ここが代用された。

次に,下屋敷であるが,これは大崎屋敷と本庄(所)屋敷が有名であるが,江戸時代を通じて新設または廃止された下屋敷が十二ヵ所あったといわれている。下屋敷は藩主の別荘と考えてよいだろう。

文政十一年(1828)に,備前藩大坂蔵屋敷より江戸に送銀された「江戸仕送銀控」には「千二百二貫四十匁,寅年十一月より卯年七月までの江戸仕送り髙」とある。この年の米1石の値段は銀87匁であったから,米13690石変えることになるので,米1石を一両,1両を現在の15万円とすれば,約20億5350万円となる。

『備前藩 殿様の生活』では,米価を換算基準として1石=4万3千円で計算して,約5億4760万円としている。平成14年度の自主流通米の全国銘柄平均価格(約16,000円/60キロ)を基に現在のお金に換算すると、江戸時代後期までは金1両=約4万円だった。
翌年の「江戸遣分」は,当年が米1石90匁だったので,上記と同様に米1石を4万3千円として現在の価格に換算すると,約9億8230万円となる。これは9ヶ月分だから,1年では約14億円となり,藩庫全支出の約3割にも当たる。

江戸滞在費(江戸遣分)が莫大な支出である理由は,藩主および正室や嫡子,江戸勤番の家臣の生活費は別として,その交際費にあった。その一端を記せば,毎暮及び盆,五節句における本丸,西丸,同近習並びに大奥を始め,老中,若年寄,大目付,御目付,各部屋の側衆,御坊主の他に,御三家はじめ各奉行及び吟味役,各寺社への贈物,付け届けをしなければならず,その献上品目は盃台年一度,大刀及び馬年両度,時服に干鯛,樽代を添えて年三度,反物各種等を季節に応じて二十ヵ所に付け届け,また参勤交代で参府の節は,この外に芝,上野,日光,菩提寺等の各寺院に至るまで御太刀,御馬(代黄金),各種織物,魚鳥,鳥目(銭)等を取り揃えて進物しなければならなかった。

また,時の権力者への献上品も莫大なものであった。元禄期,綱吉の側用人であった柳沢吉保に対して,池田綱政は高額な贈物をおこなうだけでなく吉安が宿直の時は毎夜高価な料理を夜食として届けている。そのため,「吉安の玄関番」と渾名されているほどだった。
津山藩が中野に犬小屋を造る「天下普請」を命じられて藩の財政危機となったことは別稿にて述べたが,備前藩もまた「天下普請」を命じられている。江戸城・篠山城(兵庫県篠山市)など多くの普請を命じられている。

八代藩主池田慶政の弘化二年(1845)の下国に際しても,江戸城の普請として金一万五千七百六十両を上納金として納めている。鴻池屋に莫大な借銀をしているにもかかわらずである。

留守居役は,江戸と大坂,京都に置かれ,それぞれの地で藩を代表して政治的・経済的な活動を行っていた。
江戸詰の備前藩士は仕置(家老),小仕置(番頭)それぞれ一名の下に,大小姓頭,判形,徒行頭をはじめ,大体二百余名の者が居たが,藩主が参勤時にはその人数は数倍になった。
幕府が諸藩主に対して何かの命令を発する時は,ほとんど江戸留守居役を介して行われた。また,備前藩が幕府に行政上の各種届出をする時,各種の許可を申請する時,問い合わせを行う時,常に留守居役を使って幕府の大目付,勘定奉行,寺社奉行,老中に提出した。

備前藩は当初より大坂に蔵屋敷をおいていた。これは築島町,錦屋町,西信町の三ヵ所である。築島町の蔵屋敷の規模は,東西25間,南北43間,約1075坪の屋敷であり,その内の東側に30間に4間(約120坪),西側に25間に4間(約100坪),北側に18間半に3間(56坪)の三つの倉庫が建っており,中央に大坂留守居役の役宅や,米見届場,米会所,御書院などがある。大坂留守居役は,この築島町の蔵屋敷に常駐し,国元から送られてくる年貢米や特産品をこれらの蔵に貯蔵し,堂島,天満,雑魚場などの市場で換金して国元や江戸藩邸に送った。
備前藩の蔵元は天野屋(弥三左衛門),伊丹屋(又右衛門)の二人であったが,寛文頃より伊丹屋に代わって伊勢屋(九郎右衛門)が登場するが,天和三年に倉橋屋(助三郎)が加わり,さらに延宝四年(1676)以降,備前藩の江戸廻米を一手に引き請けた鴻池善右衛門が他の商人を圧倒し,藩財政を左右する豪商になった。

鴻池家は江戸時代初期に大坂を代表する豪商として急成長した。始祖は山中新六といい、歴代当主は「鴻池善右衛門」を名乗っている。初代善右衛門正成は父・新六とともに酒造業を営み、いまの清酒にあたる「諸白」を製造して評価を獲得したが、父の後を継ぐと、江戸・大坂間の物資輸送が活発になったのをみて酒造業を廃業し、海運業に進出して家業をさらに発展させる。そして,岡山藩の物資運輸を任され、さらに諸藩との関係を築くと貸付も行うようになったが、この「大名貸」によって金融業が有利だと悟り、酒造業を廃業して両替屋を開業した。2代目に家督を譲った後、鴻池屋は幕府御用の「十人両替」(公認の両替屋十人)に指定され、名実ともに大坂随一の豪商となった。

寛文元年(1661)暮,備前藩の蔵元・掛屋を兼ねていた鴻池了信が岡山に来たとき,藩主光政自らが歓迎行事をおこなってもてなしている。しかし,その後の度重なる借銀申込みに対して,鴻池善右衛門が貸金の条件として出したのが,全藩士の俸禄の削減,領内への徹底した倹約令の発布であった。この条件に光政は激怒して追い返しているが,結局は前言を謝って相変わらず借銀を続けざるを得なかった。

光政の苦境を救ったのが正室勝子であり,その母千姫(天樹院)であった。彼女は本多忠刻に嫁入り時に10万石の化粧料を持参しているが,それらを節約して莫大な資金援助を与えている。
寛永十四年(1637)の島原の乱の時に一万六千両,万治三年(1660)の領内の大洪水の時に四千両,他に二万八千両と合計四万八千両という融資を天樹院より受けている。しかも,彼女は死に際して「光政に融資した金額はすべて帳消しにするから,その借用書全部を破却せよ」と言い残している。

大坂留守居役は,これら蔵元や掛屋などの豪商から借銀をすることが役目であった。藩命によって豪商から金を借りまくった結果,その元利償還のために藩財政は窮乏化の一途を辿ることになったのである。例えば,文政十二年の総支出高6934貫931匁のうち,2726貫731匁が借銀元利払に計上されており,総支出額の四割六分にも当たっている。
他の役目としては,藩からの問い合わせについて大坂城代や町奉行に尋ね合わしたり,備前藩内で犯罪を犯し上方に逃亡した者の逮捕について大坂町奉行,京都町奉行などに協力を依頼したりしなければならず,激職であった。

京都留守居役は,京都の小川通り武者小路の備前藩邸に常駐し,朝廷や京都所司代との交渉,備前藩主と代々婚姻関係にあった公家一条家などとの交渉をおこなった。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。