差別に関する断想(1):被差別民
各時代には特有の価値観や人間観があり,それに基づく社会の様相があり,人々の暮らしが営まれているが,それらを的確に想像することはむずかしい。
我々は過去の歴史像をイメージするとき,史料(文献や絵図など)を通して史実を想像するしかない。そのときに,想像のもとになるのは現代に生きる我々の価値観であり感覚である。当然,間違った認識や理解が生じ,間違ったイメージが創り上げられる。特に,時代小説や時代劇などに描かれる歴史像は我々に具体的なイメージとして提供され,ステレオタイプ化してしまう。
抽象的な言葉や感覚的な表現によって,尚更にイメージは大きく違っていく。例えば,「苦しい生活」「貧しい暮らし」「厳しい身分制度」「過酷な差別」,あるいは「汚い」「怖い」「恐ろしい」「酷い」「悲惨な」…などから想像される実態や実像はどのような歴史像となるだろうか。その歴史像が次世代へと伝えられ,歳月を経ながら加味され,やがて固定化されたイメージとして定着していく。
逆に,新しい史料の発見や学者による研究によって,新しい歴史像が提示されることも多いが,大切なことは偏見や先入観,固定観念によって歴史を画一的・独善的に判断しないことである。私は歴史像は多様性の視点から捉えるべきだと考えている。多様で多面的な姿こそが本当の歴史像である以上,特定の視点や独善的な歴史観で歴史の実像を捉えたと思い込み,他説を一方的に否定するべきではない。
江戸時代の被差別民に対するイメージ(被差別民像)もまた,長い歳月の中で伝えられてきたイメージに,現在の我々が現代の価値観や感覚で捉えた印象を加味して創り上げたものである。
被差別民・部落・部落民(一括りにすることや歴史的連続性には疑問をもっているが,歴史的イメージの払拭という意味で使う)に対して創られてきたイメージ,形容されてきた言葉,例えば「貧しく,悲惨な生活」「こわい」「残酷」「ちがう(同じではない)」,さらに彼らに投げつけられた差別語の数々は,いつから,何を根拠(理由)に,だれが言い始めたのか,歴史的事実(実像)はどうであったのか。私は,そのことを明らかにしたいと思い続けてきた。
身分差別が当然の江戸社会において,「差別されていない」と主張することは歴史を知らなすぎる。身分の違いによる差別,同じ身分の内での差別がさまざまな要因が複雑に絡み合って差別構造が創り上げられてきたのが江戸時代の社会である。
「差別」の定義によって解釈は異なるし,現代の「差別」の概念から江戸時代の「差別」を捉えることもまちがいである。
…幕府は,刑罰制度で最も残虐で最も目立つ仕事を行うのに被差別民を意図的に利用したわけだが,歴史への長期的影響という観点から見た場合,この幕府の方針が,いわゆる「特殊部落民」に対する差別が広がる直接的要因の一つとなったことは間違いない。彼らは,江戸時代の被差別民の子孫だと広く信じられていた人々のことで,この差別は今も日本で続いている。 (ダニエル・V・ボツマン『血塗られた慈悲,笞打つ帝国』)
詳細な考察は別に行うつもりであるが,ボツマンの言う「長期的影響」こそが私の考察のテーマである。
「長期的影響」は,換言すれば,現代の部落問題につながる被差別民・部落民に対するイメージの変遷であり,この分析と考察によって「真の歴史」が解明されるだろう。
誤解ないように明言しておくが,私は「差別」を時代のせいにして仕方がなかったと言うつもりはない。歴史を戻すことができない以上,間違った歴史認識は改めるべきであり,間違った政治制度や社会構造,誤った人間観(差別や人権意識の欠如など)といった歴史的過誤を明らかにして現代に活かすべきであると考えている。
ボツマンも「…しかし,江戸時代の被差別民を,自ら歴史に働きかけることができず,なすすべなく幕府の方針の犠牲となった人々と単純に考えるのは間違いだろう」と述べているように,従来の「貧しく,悲惨な被差別民」というイメージは改めなくてはならない。
…江戸時代の被差別民たちは,幕府にとって重要な役務をいくつも実施するのを承知することで,身の安全をある程度勝ち取ることができた。…問題や争いが起きたときは,忠実に役務を履行する見返りとして幕府に助けを求めることができたのである。
…幕府から重要な役務を行う責任を課せられた被差別民の集団および指導者は,特権を求めることができたし,幕府の後ろ盾を得て他の被差別民を配下に置くこともできた。つまり幕府の仕事を行う権利は,被差別民が他の被差別民に振るう権力の源だったのである。
…社会の周辺に追いやられ差別されるのに慣れてしまった人々にとって,こうした(刑罰関連の)役務は結局のところ,自分が権力者の側にいることを人前で示す,またとないチャンスとなったからである。
(ダニエル・V・ボツマン 前掲書)
被差別部落に槍や袖搦,刺叉などの捕縛道具が残されていることから,彼らの祖先は現代の警察官であったから差別されていなかったと主張する者もいるが,私はそうは思っていない。
捕縛道具は,与力や同心の「手下」としての役を務めるために手にする権利を認められたのであり,市中引廻しや生首など晒の場で幕府の権力や厳しい刑罰制度を人々に示すために持たされたものである。
現代の警察官と比べ,被差別民の担った実態は,その社会的地位においても職務(役務)においても全く異なっている。彼らは,刑罰制度の一端,行刑役を負ったに過ぎない。支配組織である幕府や藩が支配体制を維持するために,身分制度を利用した刑罰制度を実施し,その末端としての役務を命じられたのが被差別民であった。
刑罰制度に携わることによって被差別民は自らの立場を「支配体制側」「権力側」つまり武士側という自覚を持っていたとも考えられる。しかし,庶民は彼らをそのように見ていただろうか。
繰り返すが,現代の認識や価値観で過去を捉えるべきではない。現在の市民が警察官に対するように,江戸時代の百姓や町人が被差別民に接していたとは思えない。極悪非道な犯罪者を捕縛したのは与力や同心など武士であり,処刑の命を下したのも武士であって,被差別民は実行したに過ぎない。中には感謝したり溜飲を下げたりした者もいただろうが,大半の人々は「刑罰の執行」を見物していただけであろう。むしろ,ボツマンが述べているように「生首の隣で番をして立つ被差別民は,百姓の目には実に恐ろしい姿として映ったに違いない」と,私も思う。