幕府の穢多身分の引き上げ
慶応2年(1866)の第二次長州征伐において,浅草弾左衛門とその配下は幕府の命を受けて500人の人足を従軍させ,留守家族の生活保障もした。これらのことを挙げて,慶応四年(1868)正月,弾左衛門は平人に引き上げられることを願い出た。
弾左衛門の「身分引き上げ」の嘆願書を受理した江戸南町奉行朝比奈甲斐守昌弘・北町奉行小出大和守秀実は伺書を老中稲葉美濃守正邦に提出した。同年一月,許可決済が達示され,南北奉行より弾左衛門に通告され,町年寄役にも通達された。
浅草弾左衛門の平人身分引き上げ申渡書(慶応四年一月十三日)
申渡 弾左衛門
其方儀,御入国以来,先祖弾左衛門より数代連綿と相打続罷在,平素御用品上納,仕置物御用無滞相勤,兼々出精致し,且去る子年牢屋敷焼失之節,其方囲内牢屋へ囚人預遣し候砌,累年御用被仰付候冥加之程を存,自分入費を以,手厚く取扱ひ致し,其上,去る寅年,長防御征伐に付,配下之者共,農夫に替へ,戦地人足御遣方之儀申渡候処,強壮之者相選び,五百人御雇上げ相願,遠路之戦地へ立越候儀に付,相残し候家族共へは養育方取計遣し,其方儀も出張差配致度御奉公相願,奇特之筋には候得共,急御用も可有之,差止候処,手代共の内,人選致し,名代に差出,上坂為致無滞御用相勤,今般配下の者共,銃隊取立之儀相糺候処,一大隊之人数可差出旨御請致し,差向百人相選,小隊業前熟練致候迄は,自分入用を以雑費支払,非常之節,御奉公相勤度段申立,奇特の至り,鎌倉以来由緒も正敷義に付,出格之訳を以て,身分平人に被仰付,是迄之通,御仕置者并支配筋引請等申付候間,難有可存,
右申渡之趣,証文申付之, 辰正月十三日
朝比奈甲斐守
小出 大和守
正月二十日 町年寄への申渡し
今般 弾左衛門身分,依願平人に御引上相成候間,為心得 町中江可申渡置事
その後,弾左衛門はさらに配下六十五人の身分格上げを申し入れ,同年二月五日に小笠原壱岐守より町奉行宛に「弾内記より内願之趣も有之に付,手下之者共,穢多の称を相止,扱いの儀は是迄之通取扱候様可申候事」との指示があった。
弾左衛門手下六十五人の身分解放願
弾左衛門乍恐申上候 … 鎌倉以来私手下に付候譜代家来筋之者六十五人,今以て連綿子孫相続罷在,私に引続被仰付候儀諸御用品,累年之間夫々相勤め候儀は,勿論の議,私家事向に至る迄力を尽し,共々心合せ御奉公向相勤候もの共に有之,既に今般私儀,意外の御恩頂戴奉蒙御沙汰候も,全く右各譜代之者,並に手代共,私江心添御奉公相勤故之儀に而 … 私同様平人に被成下候はば,広大難有仕合奉存候 …
弾左衛門の身分引上げ願いの一年前,慶応三年二月に大阪渡辺村より「賤称廃止歎願書」が出されている。
摂津渡辺村からの賤称廃止歎願書
此度御用金被仰付,私共身分に取,冥加至極難有仕合に奉存候,就ては私身分之儀は,元来往古神功皇后三韓征伐之砌,御供被仰付,彼地に罷越候処,彼地之風習一体に穢肉食し候処より神国清浄之地にて穢肉を食し候条,朝勤不相成旨を以,浄人穢人と被為分,私共へは一切不浄掛り之御用可相勤様被仰渡候,其後陵等之御用も度々相勤罷在候,且染習難黙示,穢肉食し来候処,猶亦被相忌,獣類等之不浄物を私共へ被下,取扱被仰付候処より,終に人間之交りも不相成様成行候処,悲歎残念之次第に御座候,然る処,先年己来,異国より和親交易相願候処,遂に攘夷御期限被仰出候間,私共,先鋒被仰付候得ば,一統死力を尽し相働,御国恩を奉報度旨,出願可仕存念に御座候,追々御和親に相成行候趣奉承知候上,右外国人義は一体に獣肉を食し候風儀に有之候得ば,私共獣肉食し候より御国地を奉穢候故,四民之外に御遠避に相成候段誠に以,歎敷次第奉存候,何卒私共身分に於て,穢多之二字を御除被仰出候,御用金も銘々家財を傾け奉献候間,此段御聞届裁成下置候様,奉願上候,
以上
これらの史料を読むと,当時の穢多身分に対する社会認識と,穢多身分の人々が周囲(武士・平人)からどのように見られていたか,またどのように見られていると認識していたかがわかる。
それは「穢多」の「二字」に対する思いでもある。「穢多」は単なる身分名だけでなく,「穢多」には,この「二字」込められた賤視観・差別観を表象しているのであり,身分の社会的立場を表していたのである。
彼らの願いは「穢多之二字を御除被仰出候」であり,「身分平人に被仰付」であった。彼らは「平人」と同じ身分・同じ扱いを願っていたのである。彼らが認識している他身分との関係や社会的位置は,「人間之交りも不相成様成行候処」であり「四民之外に御遠避に相成候」の文言からも明らかなように,排除・排斥された「社会外の身分」であった。その理由は「肉食」であり「獣類等の不浄物」の処理にあるとしている。
弾左衛門及び彼の手下の身分引き上げに関して興味深いのは,身分を平人に引き上げた後も「是迄之通,御仕置者并支配筋引請等申付候間」「扱いの儀は是迄之通取扱候様可申候事」とされたことである。つまり,身分は「穢多」から「平人」となったが,「穢多役」や「取扱」は従来通りとされたのである。
弾左衛門(弾内記)の「身分引き上げ」の上申書(歎願書)を抜粋してみる。
(前略)此方儀先祖以来之勤功且鎌倉以来之由緒も正敷廉ヲ以身分蒙御引立格式も御取直シ相成候義ハ兼而布告致置候処右者支配下一般脇心尽力累年勉強致呉候故之義ニ而此方一身之勤労に者無之候ニ付此上とも同心御用向為相勤度候得共是迄之身分ニ而者不都合之辺も有之旁不便歎敷旨ヲ以同様御仁恕之蒙御沙汰度段再三再四歎願之趣意柄被為聞召今般願之通穢多之名目御除被成下置支配下取締方之義ハ是迄之通り可相心得旨被仰渡候条一同厚ク相心得乍併以来増長者勿論百姓家又ハ市中等へ罷出候節誇りケ間敷義ハ決而申間敷都而他之あさけりヲ不請様深相慎弥以御用向専一ニ可相心得旨組下共へ不洩様篤与弁解精取締可致事(後略)
ここでも,「支配下取締方之義ハ是迄之通り」とされている点に注意したい。彼らに対する弾内記(役所)による支配(組織)は継続しているのである。この点においての変更は一切ない。このことは,彼らの「穢多之名目」「醜名」は除去されたとしても,平人(百姓・町人)とは異なる別扱いの身分であることには変わりはないのである。
(前略)関八州之配下計右様仕法相立候而も,同種類之者諸国ニ散在,規則も区ニ相成居候儀ニ付,仰願ク者,関八州同様諸国長吏共儀,私管轄ニ被仰付候ハ,御国内一般共厚申諭,一体之商法与規則相立,職之分限ニ応シ皮革税取立,献納為致候ハ,莫太之上金ニも可相成,且又醜名御除去之廉ヲ以,一時巨万之上納も可相成見込ニ御座候,(中略)尤私并支配下之内,譜代家来筋之者者,身元御吟味之上,旧御幕之砌平民ニ御引立被成下,白日青天之身と相成候而已ならす,当御府附属ニ被仰付,右ヲ跂望仕候私支配其外諸国ニ罷在候同種之もの共儀,悲羨欣慕罷在候儀ニ御座候,何卒広太之被為布御寛典御国内一般右醜名御除去被成下置候様,伏地奉懇願候,(中略)一時醜名御除被仰出候而者, 前書是迄取扱来候賤業ハ勿論,諸御用等自然御差支相成候而已ならす,中ニ者跋扈増長之徒出来,却而弊害ヲ生シ候儀も有之候而者,深ク奉恐入候間,職業丈者私江取締管轄被仰付度,左すれハ,右長吏共之内ニ而篤実勉励之者人撰,除名相願,右ヲ目的ニ賁励為致(後略)
弾内記の上申(嘆願)の内容は,主として二つである。一つは, 全国の「同種類之者」「諸国長吏」を関八州同様に自分の「管轄」にしてほしい,二つには,その「醜名」除去である。そうすれば,税・献納の額が「巨万」になると主張する。
ここでは,「長吏」身分のままに彼らを支配するという弾内記の立場は維持されている。「醜名」除去は,その道具として利用されている。そのことは,「醜名」を一斉に実施するのではなくて彼が人選・抜擢して行うと提案している点により明瞭である。
「醜名」であるが,「しこな」の意味か,あるいは「しゅうめい」の意味かでとらえ方も大きく異なってくる。「穢多」を「身分」に付けられた総称(「あだ名」の意味もあるので)として「しこな」と解するか,それとも「穢多」を「賤称」として「しゅうめい」と解するか。
大相撲での「四股名」は,相撲でいう準備運動である「四股」を当てた,当て字で,もともとは「醜足(しこあし)」からきているといわれている。接頭語的に用いられて「強い」「丈夫」「頑丈」という意味があり,土俵に上がって取り組み前に四股をふむのは,準備運動だけではなく,相手を「醜」=「強い者」とみなして,威嚇する行為であるとも,また自らを謙っての「醜名」を使ったものともいわれる。
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弾左衛門が上申した「身分引き上げ」の「身分」は「武士」であったのだろうか。「士分」に取り立てられたとの巷の噂は確かにあったようであるが,結果として,江戸幕府によって承認された「身分引き上げ」の「身分」は「平人」である。しかし,「長吏」身分としての「役目」はそのままである。
なぜ弾左衛門は「穢多」という「二字之醜名」をなぜ「除去」してもらいたかったのだろうか。それほどに「穢多」呼称が厭だったのか。「穢多」と身分呼称されることを彼らはどのように受けとめていたのだろうか。
私は「醜名」そのものよりも,それを「除去」したいという思いの方を重要視する。同様に,『復権同盟結合規則』の「新平民ナル私共儀,往古ヨリ世ニ穢多ト称セラレ,人界外ニ擯斥セラレ,四民ト雑居スル能ハス,同等ノ交際ヲ為ス能ハス,事ヲ共ニスル能ハス,四民ノ以テ穢ハシトシテ為スニ堪エサル所ノ事ヲノミ為スヲ以テ恒職トシ,人畜ノ間ニ占居罷在候」においても,「穢多」「人界外」という言葉について字義的・訓詁学的に解釈しているのではなく,「称セラレ」「ニ擯斥セラレ」の方を重要視する。
彼らは「セラレ」たのであって自らが望んだわけでもなく,誇りをもって甘んじていたわけでもない。自分たち以外の人間から「穢多」と称され,「人界外」に擯斥(のけ者にする)させられていたのだ。
また,周囲から「能ハス」とされていたのだ。彼らが自らの与えられた「役務」のために,そのように扱われ,みなされたことを喜んで(誇りをもって)甘受していたとは思えない。
彼らを「身分」として規定したもの,彼らをそのような「身分」とみなしたもの,自らをそのような「身分」とみなされたもの,これらの相関関係を明らかにしていくことで近世身分制社会における「差別」の本質が明らかになり,近代に何が残され続けたかも明らかになると考えている。
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1812年(文化九)年,丹波国多紀郡高屋村枝郷河原の人達は,近隣の百姓村が行った「穢多非人立ち入るべからず」という立札に抗議した文章のなかで,次のように主張した(「西誓寺文書」『兵庫県同和教育関係史料集』第二巻)。
(前略)この方どもは,御上様より皮多と御書付けなされ候(略)穢多と申す者は百姓もいたし申さず,御高も所持仕らず,居屋敷もこれ無く,旦那中のかり屋敷に居て,落牛馬鹿その外穢候もの取り捌きて則ち穢多と申す者,この方どもも落牛馬取り捌きは致し候えども,是は是非無く,御百姓の身分(の)致すこととは決してこれなく候えども,ただ今にて,落牛馬のみ取り捌く穢多これなく候えば,是非無く兼務致し罷りあり候(後略)
河原は「かわた」身分の人達で構成する,いわゆる「かわた」村である。権力による身分支配や周囲の人達からは「穢多」として把握されていた彼らが,<自分たちは「穢多」ではない>と主張したのである。しかし,この場合,彼らが身分(差別)意識を払拭していたわけではない。それは,自分達は百姓(かわた百姓)であって「穢多」ではないという文脈のなかで,「穢多」身分の存在を認めているからである。
(畑中敏之『身分・差別・アイデンティティ』)
「自称」と「他称」の問題を考えるとき,<立場>のちがいよりも<呼称に込められた意味>が重要である。<意味>を感じるから「呼ばれたくない」「…ではない」という感情・心理が生まれ,「自称」が生まれる。「他称」においては,その逆もある。
なぜ,彼らは彼らを呼ぶ「他称」を拒否(嫌がった)して「自称」を用いたのか。なぜ,彼らを彼らの「自称」ではなく「他称」で呼んだのか。
「穢多」は<賤称・蔑称>として社会的に周知されていたから,「穢多」と呼称(他称)されることに抵抗したのか。それとも実態として自分たちは「穢多」ではないとの認識から抵抗したのか。
先の引用史料から,彼らは「穢多」を,農業に従事していない,土地を所有していない,屋敷をもたない,弊牛馬等の穢の処理を行うものと認識している。それゆえ,自分たちは「穢多」ではなく「かわた百姓」であると主張している。
西日本では「かわた」を,東日本では「長吏」を「自称」していたのは,自らが自己認識していた身分意識からであろう。畑中氏は,「穢多」を身分名ではなく「かわた」「長吏」を身分名としているが,では「穢多」とは何なのだろうか。「穢多」が「賤称」「蔑称」ではなかったとしたら,また「自尊」していたのであれば「拒否」することも「かわた」「長吏」を「自称」することもなかったであろう。弾左衛門が「二字之醜名」返上を願うこともなかったであろう。
「渋染一揆」の『歎願書』では,自分たちを謙って「穢多」と称しているように思える。支配層である武士身分に対してだからという意味だけとは読みとれない。