部落改良の背景-明治40年代の現状-
『岡山県史』に次の史料が載っている。
この岡山県知事は寺田祐之(てらだすけゆき,1851年1月27日(嘉永3年12月26日)~1917年(大正6年)3月14日)である。
彼は,信濃国水内郡飯山の士族であった寺田覚の長男として生まれ,慶応3年,寺田勘兵衛の養子となり家督を相続した。1871年,飯山県文学助教兼学監となり,司法省十二等出仕警視属四等警視に転じた。その後,警察は内務省に移り,兵庫・山梨・香川・広島の各県警部長,新潟県内務部長などを経て1901年(明治34年)4月2日,鳥取県知事に就任する。就任直後には県下を巡回視察し,教育施設の整備や森林の増殖,県営模範林造成などの事業を進め,1906年7月28日に退任すると同時に岡山県知事に転じる。1908年7月20日に退任し宮城県知事に転じる。
寺田は「警部長」「内務部長」として赴任した各県における被差別部落の実態を把握していたことは十分に考えられる。この史料(岡山県知事寺田の談話)の歴史的背景としては,「部落改善運動」「融和運動」がある。
文中の「普通部落の人が之と歯すると厭ふのみならず之を疎外する」について考えてみたい。
まず,「歯する」の意味である。『広辞苑』には「仲間に入る(つきあう)。同列に立つ」とある。
この言葉は,次の史料にもある。
上記の史料は,明治4年に公布された「解放令」について各府県がその主旨を解説した公文書に見える「(被差別)部落」の位置付けである。上杉聰『明治維新と賤民廃止令』および『静岡県史料』に転載されていた史料である。
上杉氏の解説によれば「『歯す』というのは,歯のように同列に組み込む,平等に並べるという意味」であり,「反対に,1本だけ抜かれた歯はどうなるか,これはもう仲間外れですね。ですから「歯せず」というのは仲間に加えない,排除するという意味」(『これでわかった!部落の歴史』)ということである。
先の一文は,「普通部落」(部落外の民衆)は「之と」(特種部落)とは「歯する」(仲間として付き合っていく)ことを嫌っているだけでなく,「疎外」(よそよそしくして近づけない)している,という文意である。
参考までに,現在はほとんど使われることのない「歯す」であるが,この時代には普通に日常生活でも使われていた証左を,次の一文で示しておく。
明治40年4月,夏目漱石が行った東京美術学校文学会の開会式における講演「文芸の哲学的基礎」の一文である。
夏目漱石の主旨についてここで述べるつもりはない。全文は青空文庫に夏目漱石「文芸の哲学的基礎」として掲載されているので、読んでほしい。
ただ,夏目漱石の言い回しは(当時であるから容認されたのだろうが)相当に差別的であり,今日では許されない言葉や表現でもあるが,この一文から当時は「探偵」という職業が相当に悪く思われていて,世の中の人々もほぼ同感であったことがわかる。職業観が時代によって変化している例証である。その上で,「歯する」,つまり「仲間にする」人間ではないと,「探偵」を見なしている。
言葉とは歳月や時代の流れの中で消えていくものもある。用法や意味が変わるものもある。しかし,「歯す」の言葉は,江戸時代(もっと古い時代からかもしれないが)から、先の上杉氏の著書より引用した明治4年の史料,本史料や夏目漱石が講演において使った明治の終わりまでは,確かにこのような意味として日常においても使われていた。
このことが何を意味するのか。「歯す」「歯せず」が,人もしくは集団,社会の関係性の状態,つまり「排除」「排斥」を意味する言葉として使われていたということである。
時代の流れに応じて、<差別>の概念(価値観・認識)もまた変化(進展)していることを認識して、歴史(部落史・賤民史)を考察しなければならない。
石瀧豊美氏は、部落史・賤民史を人権の視点から<人権拡大の歴史>と定義している。全く同感である。
つまり、この認識をもとに、夏目漱石を「差別者」と断罪することができないように、明治の人々や江戸時代の人々を「差別者」と論じることもできない。<差別>の概念が時代によって変化するように、<差別>を意味する言葉も変化している。
本史料についても、この当時、部落は「特種部落」と見なされ、あえてそれ以外の人々を「普通部落」と呼称して<差別>しており、その理由は風俗が悪く、犯罪者も多く、改善が必要であるからだとしている。さらに、「普通部落」の者が「歯する」「厭ふ」「疎外する」のは「旧来の因習」に原因があるとしている。
これらの歴史的背景ならびに動向に関しては、黒川みどり氏が『被差別部落認識の歴史』『近代部落史』において詳細な考察を行っている。私も別項にて論じているが、岡山においてどうであったかは県史や市史、および先の研究を参考にまとめたいと考えている。