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識字率
世界的に見て(世界は80%),日本人の識字率は99%以上とされる。これは江戸時代の寺子屋で読み書きを習ったからだと言われ,(誇張しすぎではあるが)時代劇などもそのように描かれることが多い。授業でも教えてきた。しかし,実際はどうであったのか。
磯田道史『江戸の備忘録』に次の一文がある。
江戸時代の「識字率」は当時の西欧社会に比べても高い水準にあり,それが近代化・経済大国化の要因とされてきた。しかし,歴史研究者の目から見れば,本当に「世界一の識字大国」であったのか疑問の余地がある。まず何をもって「識字」とするのか識字の基準が問題になる。
…長野県北安雲郡常盤村では明治14(1881)年に満15歳以上の男子のみ882人の「識字調」が行われた。国語学者の徳川宗賢氏が雑誌「国語学」にその結果を紹介している。
これによると,「数字も名前も自分の村の名前も書けない」35%。「それぐらいは書ける」41%。「出納帳がつけられる」15%。「手紙や証書が書ける」4%。「公文書に差し支えない」2%。「法令布達が読める」1%。「法令布達が読め新聞論説を理解できる」2%。つまり,自分の名前が書ける程度の識字率で65%。新聞を読んで政治論説が理解できる人は2%であった。
この史料のみで断じることはできない。1881年といえば,明治になって14年後であり,学制が発布(1872年)されてからも9年が過ぎている。都市部と農村部の違いが大きいとしても,明治維新の動乱が収まり,近代国家に向けた諸改革が断行され,文明開化も庶民に浸透し始めた頃である。さらに,全国的に自由民権運動が広がり,前年には国会期成同盟が結成され,この年には「明治14年の政変」が起こり,国会開設の勅諭が出された。
なぜ「識字率」にこだわるのか。当時の民衆が公文書をどの程度読解することができたかによって民衆の意識を推し量ることができるからである。「渋染一揆」(1856年)の原典史料には,庄屋に対して「御触書」の内容を読み聞かせて守らせるようにとある。磯田氏の一文にある百姓の識字能力からすれば,村民のほとんどが「御触書」を読むことができなかったことになる。しかし、原典史料である『禁服訟歎難訴記』の作者、豊五郎は寺子屋を開いて村の子どもたちに読み書きを教え、古典や農書などを蔵書として読んでいる。
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