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先生は教え方に責任がある

30年近く前の拙文である。若き日を恥じながら、その時の「気づき」が成長の糧となっていることを痛感する。
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数年前,朝読書の時間に林力氏の著書を読んでいたときのこと,わずが10分間の読書なので僅かなページしか読めないのだが,時としてそれが1ページ,数行で留まってしまうことが度々ある。1つのエピソードや1の文節が,1つの言葉が重いのである。自分の実践を振り返り,日常生活でのあり方を問わざをえない思いに駆られる。今読んでいる『若き教師たちへ』もずっしりと重い言葉が次々とあらわれて,ページが先に捲れないこともある。

「先生は教え方に責任がある」…この言葉にしても当然のことだでは片付けることができなかった。この一文の中に,被差別部落の識字学校で聞いた一人のお母さんの話が紹介されている。自分の息子ができが悪く,いつも「×」ばかりのテスト用紙を持って帰る。ある日,また×ばかりと思って見ていたら,大きな×の字がいっぱい書いてある中に,かげに隠れて恥ずかしそうに小さな「○」が一つ付いていた。なんと小さな○かと思って見ていたら,だんだんと腹が立ってきたいうのである。

以下,原文をそのまま書き写す。この言葉を自戒として今も心に刻んでいる。

「…先生ちゅうのは,受け持ちの子がみんなわかること,百点ばとるごとすることがしごとじゃなかとですか。みんなに百点とるごと教えんならん者が,子どもができそこのうたとき,どうして,あげん大きな×はつけんならんとやろうか。自分の教え方に責任がありゃしないか。今度どう教えたらよかとじぁろうか,思うたら,恥ずかしいやら心配やらで,×の字は小そうなるじぁなかろうか。反対にたった一つでも○があったら,うれしゅうて,もっとがんばれよってゆうて,○の字は二重や三重の大きな○になるのじぁなかとでしょうか。…」と問われたことがある。

たかがテストの○付けとしか思っていなかった私は唯々恥じ入るしかなかった。<テストの結果は教師の指導に対する評価である>と聞いたことがあるが,その意味をわかっていたであろうか「こんなこともわかっていないのか」「何回も同じことを教えたのに…」などと,×を付けながら思っていた私の何と高慢なことかと,本当に情けなかった。その後におこなった冬休みの課題テスト,自分の教科指導と指導法,生徒との関わりを意識しながら,一人一人の顔を思いながら採点をした。採点時間は倍以上もかかったが,生徒一人ひとりを身近に感じることができた。自らの指導法に不足していたものに気づくこともできた。テストは<教師に対する評価である>をあらたて実感した。

人の欠点やまちがいを探して批判することほど簡単なことはない。まして自分を安全な地点において,何のリスクも負わず,一方的に批判だけする人間や,批判することでしか自己の正当性を主張できない人間の信用性など取るに足らないものだ。

続けて林氏は次のように書いている。

「同和」教育運動は圧倒的多数の教育を受けられなかった人びととのかかわりを通じて,教師が問われ,教師が変えられていく側面をもつ。たんに部落の子どもをどうする,社会への啓発をどうするということだけではない。そのことを「事実と実践で勝負する」とか「差別の現実に深く学ぶ」と表現してきたのである。

このことを勘違いをしている教師や同和教育に関わっていると自認している人々が多いような気がする。

同和教育・人権教育は「部落の子」「被差別の立場の子」を救済するための教育ではない。教育の本質を問い続ける教育の営みであり,すべての子どもの人権を保障すると同時に人権の大切さを学び合う教育実践である。そして,この対局に「差別と人権侵害」があり,「同和利権」「えせ同和」があるはずなのに…。 

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。