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ハンセン病と宗教(1) 慰安と教化(1)

私がなぜ「謝罪文」に着目するか、それは「謝罪文」こそが「認識」を明らかにするからである。なぜ謝罪するのか、何を「まちがい」と認めるのか、誰に対して何を謝罪するのか、何を反省し今後どのように対応すべきと考えているか、などが書かれていてこそ「謝罪文」と言えるものだからである。

古くからハンセン病と深い関わりを持っていた仏教から見ていきたい。まず、1996年の「らい予防法」廃止直後に出された「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」(真宗大谷派宗務総長能邨英士)から検証する。

「らい (ハンセン病)」が「らい菌」いう極めて弱い病原菌による伝染病であることが判明して一世紀。
それに関連して、感染力は極めて弱く、潜伏期間は極めて長いことが判明してから70~80年。
確実な治療法が発見されてから既に50年の時を経ています。
我が国における「らい予防法」は、1907年にその原型である「法律第11号らい予防に関する法津」が成立しました。
その後、1931年には患者の「強制隔離」の条項を盛り込んだ大幅な改正が行われ、隔離の必要性が科学的に否定された後、1953年に若干の「改正」を経るも、「隔離」の条項はそのまま引き継がれ、現在に至っていましたが、「全国ハンセン病患者協議会」を中心とした各層の永年の運動によって、さる3月27日ようやく廃止されました。
そもそもこの法律は、「らい」感染者の医療のためではなく、非感染者の「安全」のために、感染者の“隔離”を目的として作られたものであったのです。
病そのものではなく、病気になった“人”を社会から抹殺するような「らい撲滅」のスローガンに象徴されるように、そこには不都合なものを排除することで、排除した側だけの「安全な社会」ができるとする社会体質が背景として存在していました。
この法津は、病としては一つの感染症に過ぎない「らい」について、「法」を後ろ盾にしながら、強制隔離を必要とするような「恐ろしい病気」であるという誤った認識を社会に植え付け、国の隔離政策を正当化するものとして機能してきました。

「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」

前文として、「らい予防法」の成立から廃止に至る概略とその問題点が書かれている。
まず、ここまで読んで、内容においてはそのとおりであるが、正直、なぜ今まで、もっと早くこんな単純明快な矛盾に気づかなかったのだろうかと思う。(これについては後述)
ここでの論点は、1つは「隔離」の目的であり、2つは「排除」の手法であり、3つは「認識」の啓発(「植えつけ」)である。光田健輔が考案し、内務省(厚生省)官僚が実現した日本のハンセン病政策の問題点がよく整理されていると思う。

しかし、どこか他人事のような責任回避の記述に感じられてしまう。何より「主語」が抜け落ちている。「だれが」このような「法律」の制定を意図したのか、「だれが」このような内容と目的を考えたのか。まるで「法律」が一人歩きしているような印象を持つ。「らい予防法」までの法整備に関して、目的と意図を持って内容を考えた「人物」と賛同して作成した「人物」がいるはずである。それは光田健輔ら療養所園長であり、厚生省官僚たちである。

1931年、真宗大谷派は「らい予防法」の成立にあわせ、教団を挙げて「大谷派光明会」を発足させました。
当時から隔離の必要がないことを主張した小笠原登博士のような医学者の存在を見ず、声を聞くこともないままに、隔離を主張する当時の「権威」であった光田健輔博士らの意見のみを根拠に、無批判に国家政策に追従し、“隔離”という政策徹底に大きな役目を担っていきました。
私たち真宗大谷派教団は、その時代社会の中にあって、その法律のもつ意味を正しく認識することができず、国家による甚だしい人権侵害を見抜くことができなかったといわなければなりません。

「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」

なぜ「光田健輔博士らの意見のみを根拠に」したのか、なぜ「無批判に国家政策に追従し」たのか、なぜ「法律のもつ意味を正しく認識することができ」なかったのか、なぜ「国家による甚だしい人権侵害を見抜くことができなかった」のか、これらには答えていない。

当時の真宗大谷派でハンセン病問題を主導した人物、さらに「大谷派光明会」を運営した人物がいるはずである。彼らが「光田健輔博士らの意見のみを根拠に」したのであり、「無批判に国家政策に追従し」たのであり、「法律のもつ意味を正しく認識することができ」なかったのであり、「国家による甚だしい人権侵害を見抜くことができなかった」のである。なぜ、その彼らについて追及しないのだろうか。たとえ故人となっていようとも、彼らが主導した事実を検証すべきである。過去の人間が過去に行ったことであるという決着の付け方は、本質的な究明にもならず、反省の意味をなさない。

国家は法によって「患者」の「療養所」への強制収容を進めました。
それと相俟って、教団は「教え」と権威によって、隔離政策を支える社会意識を助長していきました。
確かに、一部の善意のひとたちによっていわゆる「慰問布教」はなされてきましたが、それらの人たちの善意にもかかわらず、結果として、これらの布教のなかには、隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを犯したものがあったことも認めざるをえません。
このような国家と教団の連動した関わりが、偏見に基づく俳除の論理によって「病そのものとは別の、もう一つの苦しみ」をもたらしたのです。私たち真宗大谷派教団と国家に大きな責任があることは明白な歴史の事実なのです。

「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」

繰り返すが、「教団」が行ったのではない。「教団」にあってハンセン病政策を担った指導的立場の人物が、「教団」の名を使って行ったのである。その人物のまちがった認識と指導が「慰問布教」を行った「善意」の信者たちの言動を通して、入所者に「隔離を運命とあきらめさせ、園の内と外を目覚めさせないあやまりを」犯させたのだ。
問うべきは、「教団」ではなく、「教団」の「教え」と「権威」を国策に「相俟」うように考えた指導者である。「偏見に基づく俳除の論理」を正当化した指導者を糾弾せずして、責任を問うことはできない。

今、「療養所」の内から発せられた糾弾の声に向き合うとき、私たちの教団は、四海同朋という教えにそむいていたことを懺悔せざるをえません。
本当に申し沢のないことです。
真宗大谷派は、これらの歴史的事実(教団の行為と在り方)を深く心に刻み、隔離されてきたすべての「患者」と、そのことで苦しみを抱え続けてこられた家族・親族に対して、ここに謝罪いたします。また同時に、隔離政策を支える社会を生み出す大きな要素となる「教化」を行ってきたことについて、すべての人々に謝罪いたします。
そして、この謝罪があまりにも遅かったことについてもお詫びしなければなりません。それは、謝罪を出発点として、過去から現在までの差別と偏見から「療養所」の内と外が共に解放されていく歩みが始まらなければならないと考えるからです。
真宗大谷派はその歩みの具体的な一歩として、このことを社会全体に対して声明し、私たちと同じく責任を抱える国に対して、「謝罪と補償」を強く要請し、そして、二度と同じ過ちを繰り返さないために、国民的課題として「学習」及び啓蒙活動を速やかに展開することを併せて要請します。
同時に、私たち自身が継続的な「学習」を続けていくこと、そして 「教え=ことば」 が常に人間回復・解放の力と成り得るような、生きた教えの構築と教化を宗門の課題として取り組んでいくことをここに誓うものです。

「ハンセン病に関わる真宗大谷派の謝罪声明」

それまでは「慰問」であり、熊本判決後は「謝罪」である。この違いをどう受けとめればよいのだろうか。なぜ「内から発せられた糾弾の声に向き合う」ことができなかったのか。単に「光田健輔博士らの意見のみを根拠」にして、療養所からの「糾弾の声」に耳を貸さなかっただけで済まされはしないだろう。やはり、そこには光田健輔に従う国家に盲従した「教団」の指導者および指導体制(方針)を検証すべきではないだろうか。

宗教の目的は「慰安」と「教化」であり、大義は「救済(救い)」である。そこに慢心があったとしか思えない。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。