部落史ノート(5) 「賤民史観」とは何か(5)
雑誌『現代の眼』(現代評論社)11月号に掲載されている、沖浦和光と菅孝行の対談「賤民史観樹立への序章」から、彼らがどのように「賤民史」を捉えているかをまとめているが、最後に「弊牛馬処理」「農業」について彼らの考察を見ておく。
沖浦はこの当時までの被差別部落に対する認識を改めるよう、この対談でも繰り返し述べている。
沖浦は全国の部落を調査し、弊牛馬処理と関係のあった部落は意外なほどに少ないと言う。その理由を次のように述べている。
この当時から随分と研究が進み、特に地方での史料の掘り起こしによって地方史研究が進展して、沖浦の発言が証明されている。岡山藩においても部落の主な仕事(生業)は農業である。「渋染一揆」の原典史料である『禁服訟歎難訴記』や『屑者重宝記』でも、散田や荒田を買い求めて耕作に励み年貢を納めているとある。ただし、穢多であっても「大作」の農家も少なくない。皮革業については、皮剥ぎは行っているが、あくまで「役目」であり、原皮は大阪や播磨に送っている。
菅の「被差別民は、岡っ引きや首切り役人をやって、民衆ににくまれていたのだから差別されて当然だなんてことをいって歩く連中もいますからね」という発言に対して、被差別民のもう一つの大きな「役目」である<治安維持>に関して、沖浦は次のように述べている。
もちろん番人だけではなく、捕亡や探索、処刑の仕事も命じられている。
岡山藩では「穢多頭」が「目明し」として手下を統制して「役目」を担っている。非人である「山の者」も同様に「役目」に従事している。岡山藩でも土地の返還を求めた史料を目にした覚えがある。
ここまで沖浦和光と菅孝行の対談で語られた「賤民史」の必要性、法制史や思想史の接点、文化・芸能との関係性、賤視観の要因と変容、部落差別の源流、そして支配体制(政治体制)に利用・統制されながらも生き抜いてきた姿をまとめてみた。表層的な概要ではあるが、賤民史とは何か、「賤民史観」とは何かの一端は明らかにすることができたと思う。もちろん、40年も前の研究であり、現在ではより明らかになったことも、修正されたことも、より詳しくわかったことも多い。その一方で、未だに不明な点や研究の深まりが進まない点もある。
穢多・非人は「賤民」ではなく、武士階級(支配側)であり、差別などされていなかったと荒唐無稽なことを言い、「賤民史観」を自己流に解釈して批判している人間もいる。繰り返しになるが、2人は賤民を<貧困で悲惨な被差別の存在>であると、見下しても愚弄してもいない。むしろ、今までの歴史観では描かれなかった「賤民」の果たした役割と創造、その多大なる影響、そしてなぜ彼らが差別(賤視)を受けてきたかを明らかにしようとする。その歴史観こそが「賤民史観」である。
私は「賤民」であろうがなかろうがどうでもいい。私が問題にしているのは、なぜ彼らが「賤視」されたのか、その「賤視観」が<身分制度>(支配的政治体制)に組み込まれ、江戸時代において差別的統制が強化されたのか、さらには明治以後も人々(民衆・平民)の差別意識(賤視観)は残存し、変貌して現代にまで続いているのか、である。