午前1時の
「ただいまぁ…」
真っ暗な部屋に向かって誰にも聞こえないくらいの声をため息と一緒に吐き出す。
足元も見ないでパンプスを脱ぎ捨てると、どこからか風を感じた。
暗いままの部屋を見ると窓が大きく開かれてカーテンが揺れている。
うそ、閉め忘れた?まぁ6階だから泥棒は入ってこれないだろうけど。
カバンをソファに投げながら窓に近づいて行くと風と共に煙が舞い込んできた。
「えっ!?」
ベランダを見ると、窓にもたれながら煙草を吸うスバルの姿があった。
「なんで…」
ベランダのテーブルに置いてある灰皿には4本の吸い殻がくしゃっと潰されている。
「どうしてい…」
「あーいうのがいいんか」
こっちは見ずに煙を吐き出しながらそう聞いてきた。
あぁ、ここからだとマンションの入り口が丸見えか…。
何も発しない私を一瞥しながら、短くなった煙草を最後に一吸いし、灰皿に押し付ける。
「おまえの相手できるやつなんて俺くらいや思てたけどなぁ」
ニヤっとしながら悪びれもなく言うその顔に、胸が苦しくなる。そして、鼓動が速くなる。
気付かれないように、薄い笑顔を見せるしかない。
「待ち続けるの、ちょっと疲れた…」
この前来たのはいつだったんだろう。2カ月前だっけ。もう来ないと思ってたのに…。
「そうやな」と小さく笑って、私の横を通り過ぎた。
「人の女に手出したらアカンわ」
テーブルには、うちの冷蔵庫にはない缶ビールが2本空けられており、その横にはまだタグがついたままのカメレオンのぬいぐるみがそっと置かれていた。
ポケットから出した鍵を、テーブルにカチャリと置く。
おもむろにカメレオンを持ち上げると、じっと睨みつけながら首を傾げ、またテーブルに戻した。
「そっくりだよ」
「アホ。俺はチワワや」
いつだったか、私が言った。カメレオンに似てるって。
覚えてたんだね。
缶ビールを持ち上げるとまだ半分くらい残っていた。
この部屋から出ていく背中を見ながら一気に飲んだ。ずいぶんぬるくなった液体が喉を通っていく。
相変わらず苦い。だけど、この味は好き。
「スバル…」
「んあ?」
「キスしたい」
靴を履こうと屈んでいた顔がゆっくりこっちを振り返った。
「…こっちこい」
缶を置き、その声に吸い寄せられるように近づいていく。
後頭部に手がまわりガッと引き寄せられ唇が重なる。
薄い口から舌が入ってきて声が漏れそうになった。ほんの数秒なのに。
唇が離れたとき、口の中に煙草の香りが広がっていた。
「なんちゅー顔しとんねん」
そんな言葉に反応できないまま、バタンと閉まるドアの音を静かに見送った。
ゆるい風に誘われながら開けられたままのベランダへ出た。
月が雲に隠されて、ただただ静かな真っ暗な夜。
持ち主に置いていかれた煙草とライターがそこにいた。
一本を引き抜き火をつけた。口から広がる香りが私を包み込み、さっきのキスが蘇ってくる。
なんで今日だったの?
今日は意味がある日だよ。
マンションから出ていく姿が目に映った。
ほんとだ、ここからよく見えるんだね。
手すりに寄りかかり、煙をふぅーと吹き出しながらその背中を見つめていた。
煙が目に入って痛い。じわじわと鼻の奥がツンとしてくる。
その時、
見つめていた背中がゆっくりと振り返り、こちらをまっすぐ見た。まるで見ていたことを知っているかのように。
口の端を持ち上げてニヤッと笑う。あの堪らない顔で。
ずるい。あぁ、とてつもなく。
煙草を、灰皿に思いきり押し付けた。