大日如来坐像を美しいと思ったから真似したくなった。
暗がりにぼうっと輝く金色の塊。
半蔵門ミュージアムにある、運慶が作ったとされる大日如来坐像。その姿が、なんとも美しい。あまりに美しいので2度めの訪問だ。私の中の大日如来坐像が薄れてきたため補充しにきた。
私は、趣味で瞑想をしている。特別仏教徒でもないし、瞑想がうまくもない。瞑想の定番といえば、呼吸を数えるのだが、五回も数えられないことが大半だ。メンタルも弱く、怒りや迷いや煩悩に日々明け暮れている。ただ結跏趺坐は苦しくなくなった。自覚している収穫はこれぐらいだが、何かの役に立つとも思えない。
もともと海馬が大きくなるというので始めたのだけれど、測定したこともないから大きくなったかは知る由もない。意味があったなら嬉しい。しかし意味がなくても瞑想していること自体には満たされている。
大日如来坐像の姿勢は、瞑想する際に真似したい!と思った。彼も結跏趺坐である。上半身は、上がるでも下がるでもなく、反るのでも曲がるのでもない。そこに在る、という感じだ。アゴや頭も同様、引くでも出すでもなく、そこに在るのだ。
手は智拳印なるものを組んでいる。名前がカッコいい。この智拳印は不思議な形だ。胸の辺りの正面で両手を組む。左手は人差し指を天に伸ばし、他は軽く握る。右手は左の人差し指の先端を包むように握る。右の人差し指はカタカナのクの時に折る。親指は握った中指の中に入れる。見様見真似で印を組んでみると何とも窮屈だ。体の横に沿って肘を上げると窮屈さが解消された。すると、肋骨も上がり、上でも下でもない上半身に近づいた気がする。私は、元々下がっているのかもしれない。これによって瞑想にどんな効果があるかはやはりわからないが、呼吸はしやすい気もする。
それにしても「大日如来のようになりたい」なんて、なんとだいそれたことを考えたものか。無知ゆえに思えることだろう。
大日如来坐像ロスがまた起きたら見に行こう。なんせ無料だ。煩悩しかないからこそ行くのだ。