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今あらためて、愛に生きることにした。
音声でお聴きになる場合はStand.fmよりお聴きください。
私が存在しているだけで、クライアントにとって解放的であり、援助的になっている。
私の魂が、相手の魂に届き、それに触れているように思われる。私たちの関係がそれを超越し、もっと大きな何かの一部になっていく。そこには深い成長と癒しとエネルギーが存在する。
来談者中心療法の創始者、カール・ロジャースの晩年の著書『A Way of Being』の中で、彼は上記のように語っていた。
今日のnoteでは、私自身のあり方について書いて行こうと思う。
もしかしたら、それは、自分への契約書みたいなものかもしれない。
「死んだときにどんな人だったと周囲に言われたいか?」という質問は、自分自身の在り方、価値観に気付くための問いとして、しばしば出会うものだ。
この問いの答えは、ある時から私ははっきりと決まっている。
それは「愛情深い人だった」である。
クライアントさんにとって、私が味方だと思ってもらえなければ、ご本人は自分の問題に安心して向き合うことができない。私が信頼できないならば、常にどこかしら緊張し、エネルギーの矛先を支援者である私に使わなければならず、自分自身に対してマインドフルネスでいることが不可能になるからだ。
しかしどうやったら、味方であると思ってもらえるか。
きっとそこにテクニックなどないのだろう。
あるのは人間性なのだと思う。
とはいえ、私は不完全な人間であり、普通に怒り、悲しみ、恥におびえ、不安を抱えることがあり、時には嫉妬もし、誰かにちょっと意地悪をしたい気持ちになることもある。言葉の選び方を間違えて、あちゃーっということもよくあるし、なんというか、考えていると情けなさでいっぱいだけれど、そんな私自身は、どうやったって誤魔化しようがない。
誤魔化したところですぐバレるし、バレた後の気まずさと言ったらないわけで。
そんな時は、「どんな偉人も不完全な存在なのだから、私もこれでいいのだー」とバカボンのパパのように言ってみるが、対人支援を重ねれば重ねるほどに、私と言う人間性がセッションの結果に関わって来る気がしてならなくなる。
日常の些細なことを、ただのほほんとやり過ごすだけでは、私の人間性は成長しないんだろう、美味い魂には育たないんだろう。
苦労すればいいって話でもないし、年齢重ねればいいって話でもないし、一生解けない宿題出された気分だけど、何事も真摯に取り組んで行くことを忘れないようにすれば、きっと少しずつでも人間として成長できると信じるしかない。
話を「死んだときにどんな人だったと周囲に言われたいか?」という問いに戻すと、私は不完全かもしれないけれど、自分自身を愛情深い人間だと思うし、この先もそうありたいと思っている。
すべての基本は愛であり、ジャック・アタリの言うように、未来の地球を救うのは博愛であると思っている人間だ。
何かに迷った時も、「愛にもとづいて考えよ」と自分に語りかけている。
その愛が、なんとなくクライアントさんに届いたような気がする瞬間が時々ある。
その時同時に、クライアントさんからも愛もしくはあたたかさを受け取っていることに気づく。ご本人は否定するかもしれないが、私自身にはそう感じるのだ。
まぁ、目に見えるものではないし、気のせいと言えば気のせい、そう思えばそうみたいな話だけれど、日頃エビデンスを大事にしている私も、こういう数値化されない「人間の心の中の何かしら」について、認めざるを得ないと思うことがある。そのうちそれが何なのか、明確になるのかもしれないけれど。
とにかく、私はここに来て、自分の在り方を再確認して、自信をもってこのまま進むことを決意した。
そう、それは『愛に生きる』ということ。
え?なんか臭い?いやもう臭くてもいいよ。この臭さが我慢ならない人だっているのも知ってるよ。
でもいいんだよ。
それでもいい、それがいいって言う人と生きていくのだから、何の問題もない。
そんなわけで、自分との契約をとりつけた、そんなnoteでした。
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。