思考の差異
人を殺してはいけませんよってことは、当たり前のことって
思われていますけど、なぜ人を殺してはいけないのかってことに
対して疑問を感じて考えたことがあるかってーと、あまり
ありませんよね。
ダメなもんはダメってのは間違いじゃないんですけど、それは
ある意味思考停止なわけで。
わたしが思っているのは、殺したい人は殺せばいいじゃん!ってのが
「普通」になった場合の最大の問題点って、人間のコミュニティが
成立しなくなることだと思っています。
生物単体として見た場合、人間ってのは結構弱いわけで。
まず赤ちゃんから幼年期(ちょっと正しく使えているかわかりません)が
長すぎるから、ほかの生物に襲われやすい。
だから人間はほかの生物の生存競争に勝つために、人間同士は戦わずに
他の1対1なら勝てるはずもない生物に、人間同士の協力と…
本当は、それだけじゃなくて、進化していく過程で道具や火も
使ったわけですが、それはさておき人間同士の協力です。
で、協力するってことは、コミュニティを形成して自分たち(人間ね)は
生き残るために喧嘩せずに仲良くやっていきましょうや、ってのが
今現在でも続いていると思うんですよね。
だからこそ、感情の昂ぶり程度で人間が殺しあっていたらはるか昔に
絶滅していたでしょうね…まぁ知らんけどw
閑話休題。
殺人は別格だとして、子供がよく親から言われる定番。
「悪いことしちゃいけません」
大抵の子供は「悪いことはしちゃいけないんだ」って理解して
「悪い事」ってのも、成長の段階で徐々に覚えていって社会に溶け込む
ものなんですけど、一部の人は、その思考が多数と違う方向に向かって
いくことにより、ニュースで事件を見た時「多数が理解できない事件」が
起きると考えています。
それって結局「多数にとっての悪事」を「悪事」と思っていないために
発生するんでしょうね、なんというか罪悪感の欠如ってのがシンプルな言葉
なのかなってわたしは捉えているんですけど。
そういう意味では…
「多数にとっての悪事」を「悪事と理解しているが実行する」方が
救いがあると考えています、反省できるから。
欠如ってのは、言葉の意味まで詳細に検索していませんけど「無」って
ことなら反省しようがないんですよねぇ…
罪悪感が無いから。
わたしは過去の事件事例を見るのが好きなんですけど、数ある過去の
事件の中で「あ、これは…アレだ」って思うことがあります。
やっぱ、そういう事件って際立って凄惨だったり何度も何度も同じような
事件で逮捕されていたりするのが、人間って考え方の理解だけで
こんなにもレールが分岐するんだなって思っています。
神様が人間をデザインしたとしたら、どのデザインは結構な欠陥が
あるように感じませんかね?
わたしは感じています。