「好きなこと」って言葉にイライラし始めた 6月5日(水)朝日記
水野しずさんの『正直個性論』にがっつりくらってしまった。
タイトルの通り、世の中で崇め奉られている「個性」という言葉に対して、まっ正面から、逃げず、綺麗事一切抜きで語られている。
例えば第一章は「“好きなことで生きていく“という脅迫」と言うタイトルから始まる。
聞く人が聞いたら泣き出しそうなくらい正直だなと思った。
水野さんによると、この本はビジネス本のように、励ましとかやる気とか、自己肯定感を上げるのが目的ではなく、読者に電撃を浴びせるのが目的なのだそう。
まさに読み出したら止まらず、今電撃を浴びている真っ最中なので、この本の内容について考えをまとめようとしても、できない。
脳みその使ったことない部位をいじくりまわされて、自分の考えと本の内容がミキサーされて大変なことになっている。
今書き残しておきたいのは、なぜこの本を手に取ろうと思ったのか。
どうしてこんなにもこの本の内容に刺激されてしまうのか。についてだ。
ひとえに、私自身が「個性」や「好きなこと」に振り回された人生を歩んできたからだと思う。
私はゆとり直撃世代なので(だからなのか生来なのか正直わからないが)個性的であらねばならない=好きなことで生きなければならない、という固定観念がずっとあった。
義務教育時代なんて自分と同じ世代としか話さないから、「個性」「好きなこと」があるのは常識すぎて意識にすらのぼらず、空気と同じくらい必要で当たり前のものだった。
そして大学に入って、映像学部に入り、落研に入り、自分の個性をぶん回し、人に見せる機会を得る。
私にとって個性とは、人に見てもらわなければ意味がないものだったと言ってもいい。
それが自分の好きなことだと信じていたし、それなりに一生懸命やった貯金が今の仕事にもつながっているので、悪いことばかりではないのだけど、社会に出てからは様子が変わってきた。
就職して3年目くらいの時、私は「好きなこと」に潰されかけた。
「好きなこと」で「個性」を出して生きていくんだ、と張り切っていたし、就職面接の時はそれが求められているような感じだった。
なまじ「好きなこと」を仕事にできたおかげで、概念としては好きなのに、実際に結果を出せない自分とのギャップに耐えられなくなった。
また、自分よりもその仕事が好きで、体力もあって、精神力もある人を見て、なんだか自分がいつの間にか「好きなこと選手権」に出場していて、負けてしまったような気がして、「好きなこと」しか取り柄がなかった私はすがるものがなくなってしまった。
最初は精神的に辛かっただけなのに、次第に体まで言うことをきかなくなって、「好きなことなのに頑張れない私は終わっている」と、もう社会復帰できないんじゃないかという状態で休職した。
今は回復したけど、たまに揺り戻しのように落ち込みの兆しが訪れるので、二度とああはなりたくないと、業務に支障がない範囲でこまめに休むようにしている。
・・・と、不幸自慢のように書いたけど、これはさほど珍しいことではない。
ネット上でも、私の周りでも、社会に出てから一度潰れた経験のある人なんてごまんといる。
落ち込みのどん底にいる時は、この世でこんなに苦労しているのは私だけなんて思っていても、この苦労自体も没個性なのだ。
あれから歳をとって今、「個性」や「好きなこと」ってそんなに価値のあるものなのか?という疑いの目を向けるようになった。
「個性」や「好きなこと」についてまわる派手なイメージに嫌気がさしてきた。
人生ってもっと地味なことの連続だろ。
そこに味わいが詰まってるだろ。と若い頃の自分に言いたい。
「個性」や「好きなこと」を人に見せつける必要ってあるのか?
「個性」や「好きなこと」で金稼ぐのってそんなに幸せなことか?
「個性」や「好きなこと」で成功した人の話もうおなかいっぱい。
しかも、なんとなく世間も、そんな綺麗事じゃまかり通らないことに薄々気づいているのに、誰も何も言わないどころか、むしろ持ち上げすぎてないか?
そういう言説が売れるからって、拡大して再生産しまくった先に、一体何があるんですか?
と憤っていたところに、「正直個性論」と名のついた本が目に飛び込んできたので、即買いしてしまった。
そして読んだら、気になっていることが書いてあるどころか、オーバーキルされてしまった。でもそれが清々しい。
同世代に読んでほしいし、焚き火囲んで感想会とか開きたい。