2024/11/13

昨日は早く寝たはずだが十二時間ほど寝てしまい、昼前に起床した。この時期になると寝起きが寒くて困る。外の気温的にはまだ暖房をつけるようなものではなく、この季節の変わり目がもしかすると一年で最も不快な時期かもしれない(嫌いなのは勿論冬である)。昼過ぎから夕方にかけて面接が二件あり、いずれもなんとかこなして買い物して帰宅。今日は久しぶりにバスを使ったが、公共交通機関無料チケット(障害者手帳)があまりに便利すぎるのでこれから使い倒していきたい。来年からは阪急、京阪、JRなども割引が効くようになるらしく、滅茶苦茶ありがたい。福祉国家主義万歳、である。

「SPY×FAMILY」を観始める。「赤の他人だったスパイの男、殺し屋の女、超能力者の少女が「仮初の家族」を築き、「家族としての普通の日常」を送るために日々のトラブルと奮闘するホームコメディ」(Wikiより)とのこと。20年代の覇権作品の一つであり、原作漫画は発行部数3400万部、劇場版はなんと興行収入60億円を記録しているらしい。「君の名は。」「この世界の片隅に」の2016年以降、アニメ映画が嘘みたいな興行収入を叩き出すのももはや当たり前になってきたが、本作に関してはTVアニメ版を観ている限りなぜそんなに売れたのかかなり謎である。※ネットの記事をいくつか目を通すと子供からシニアまで幅広い層にウケていること、登場人物の「内面」よりもテンポのいいストーリーとキャラ同士の掛け合いが重視される「表層的な物語」であることがヒットの要因として記述されているが、これらは別に本作に限った特徴ではない。私は今のところそれほど面白いと思っていないので、単に今の大衆の感覚とのズレだろう。最近20年代のヒット作に絞ってアニメを観るようにしているが、本作も含め10年代のヒット作とはどれも空気が違うように感じている。わたしはつねに時代に置いていかれている人間なので十代の頃からずっと時代と自分とのズレや違和を考えてきた。10年代前半の日常系はそれでもまだ90年代後半以降のセカイ系/サヴァイヴ系の延長線上で解釈することができたが、近年のヒット作にはもうそのパースペクティブだけでは捉えようのない新しい時代感覚が刻まれているように思えてならない。『ゼロ年代の想像力』で90年代から00年代中盤(所謂「ゼロ年代」)のコンテンツを(一応)網羅的に批評し一定のパースペクティブを与えた宇野常寛が『2020年代の想像力』では総覧的な見通しを立てられず各論的な批評に留まっているのは興味深いことである。

ところで、私が最近のアニメをつらつらと観ていてなんとなく思ったのは、十年前に比べて東京を特権的に美化された舞台として描く作品が増えているのではないかということである。具体的な作品名は面倒なので挙げないし、私としても気のせいではないかという気もするが、東京、それも渋谷から新宿にかけての副都心エリアが大量に登場するのは一体なんだろうか。これも私の体感の話なので適当に流してくれていいが、十年前、正確には七年前よりも東京が持つ若者への求心力が高まっているような気がする。恐らく、というかまあ間違いなくSNSの影響だろうが(そりゃ画像、映像として煌びやかな街に憧れますわな※)、流行において先端的なアニメや漫画がそれを掴んでいないはずがない。しかし私見では(こればかりでスマン)別にこれら近年の作品でもそれほど無邪気に東京が描かれているわけではなく、同じ新海誠の2016年作の「君の名は。」と2019年作の「天気の子」の中間程度の温度感であるように見える。すなわち、現代の若者のマジョリティにとって「安全に痛い自己反省」の対象としての東京、である。そして、そこで描かれる東京が、ジャンルや作品の主題はともかくやはり天皇(制)の所在を隠蔽していることは言うまでもない。この点に自覚的なのは新海ぐらいのものだろう。「すずめの戸締まり」小説版では映画では(なぜか)明示されなかった皇居が重要な場所として登場するし、「天気の子」はもう言うまでもなかろうが明確に丸山眞男的な天皇制批判が目論まれた作品である。※「言の葉の庭」以降の新海の日本神話モチーフへの傾倒をナショナリズムと断じ批判する左派の考察はいくらでも見ることができるが、新海の天皇制への両義性を持った微妙な態度には近代天皇制に対する古代天皇制の復権という意図が含まれているのではないか。天皇制の話はどうでもいい。あれ何書こうとしてたんだっけ。今日の記事はこういう思考のライブ感を大事にしたい。忘れたのでここで終わり。

※本作はアーニャという幼女の萌えキャラが主要人物として登場するが、こんなの十年前だったら大衆的に受け入れられたわけがない。萌えに振っていない割とニュートラルな今時のキャラデザ故か、とも思ったが声含めたキャラクター造形はどう見ても萌えキャラのそれである。

※しかしあと十年以内に「ゼロ年代」に次ぐ郊外の再発見が始まるだろう。

※若手、中堅の批評家の中でも稀少な反天皇制論者である宇野常寛が「天気の子」論でこの点に触れなかったのはもはや悲劇である。論旨は非常に宇野らしいものではあったが。

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