痛いの痛いの、飛んでいけ。
「世間が狭いなあ」なんてよく言うけど、そんな狭い世界で「きっともう会えないんだろうなあ」と思う人が、2人いる。
1人は、夢をくれた恩師で、もう1人は、サイちゃんという女の子。
ふと、サイちゃんのことを思い出したので記憶から消えないうちにここに書き留めておくことにした。
なんだかもう、サイちゃんの顔もぼんやりとしか覚えてないんだ。でも、いつか、いつかまた会いたいから、ここに残しておきます。
サイちゃんがこのnoteを見つけてくれたら、なんて淡い期待も抱きつつ。
出会ったのは1年半くらい前。夏の終わりの旅の途中、たった2日間の出来事だった。
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「大丈夫?どこから来たの?」
雨音が響くなか、澄んだ綺麗な声だった。
駅前のバス停で、大きなキャリーケースに、背中にはリュックサック、手には紙袋と傘を持って、いかにも”旅人”という風貌な私に、背の高い女性が話しかけてきた。
「えっと、山形からです。」
「へぇ、随分遠いところから来たんですね。」と女性は微笑んだ。
身なりと話し口調からして20代後半〜30代くらいの、"素敵な大人の女性"という印象だった。
「すみません、このバスここに来ますか。」
知らないまちのバスは難しい。前払いか後払いか、ICカードは使えるか否か、運賃は一律か加算形式か、前から乗るのか後方から乗るのか、車線はどっちか、乗りたいバス停の場所はどこか、、
いかにも”現地の人”という風貌の女性に、私はここぞとばかりに尋ねた。
「それ、私も一緒です。」また微笑んだ。
バスに乗ると、特に会話することはなく目的地に着いた。バスを降りて「ありがとうございました。それじゃ。」と別れた。
この日は高野さん(仮名)という知人の家に泊めてもらう予定で、私はiPhoneのMAPを確認しながら高野さん家へ足を進めた。
無事に到着し、夕食をご馳走になりお風呂に入って「ほっ」と息をついた時のことだった。
誰かが帰ってきたのか、突然騒がしくなりドタバタと駆け回る音が聞こえる。お子さんが帰ってきたのかな、と思っていると、突然、浴室のドアが開かれた。
そこに立っていたのは、頭からつま先までずぶ濡れ、泥まみれになった、昼間にバス停で出会った女性だった。
「ばばちゃん、知らない人がいる!」
その女性は、湯船に浸かる私を見るなり大きな声でそう言った。
どこからどう見ても昼間にバス停で出会った女性だけど、目があまりにまっすぐで幼い子どものような表情だった。
「ちょっと!ダメでしょ!お客さんがお風呂に入ってるのよ!」
と、高野さん(=ばばちゃん)が出てきて「ごめんなさいね」と、女性を連れて出て行った。
これが、私とサイちゃんの出会いだった。
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お風呂を出て、リビングの扉を開くなり後ろから抱きつかれよろめいた。
「名前!なんていうのー?」
私よりも20㎝くらい身長が高い女性は、私の頭の上に顎をおいて私の答えを待たずに続けた。
「私はサイちゃん!ツノはないけどね!」
するとすぐさま、高野さんが「もう寝る時間よ」と女性を2階に連れて行った。しぶしぶと階段を登りながら、こちらに小さく手を振る女性。いや、サイちゃん。
昼間に会ったことは覚えてないのかな…と、小さくシュンとして、リビングでくつろいでいた。
しばらくして、高野さんが2階から降りてきた。
「ごめんね、いきなり。親戚の子で預かっててね。なんていうか…びっくりさせたよね。」
「いえ!そんなそんな。私、多分あの女性に昼間バス停を教えてもらったんです。服装も同じだったと思うんだけど…人違いだったかも。」
高野さんは、一瞬はっとした顔をして「そうだったの」と話を続けた。
サイちゃんと名乗っていた女性は、私の1つ上の歳の女の子だという。ただ、様々な事情があり人格が複数あるとのこと。
私が昼間に会った時は30代くらいの女性の人格で、さっきの”サイちゃん”は5歳だという。他にも交代人格が6人いるそう。
人格ごとに記憶もバラバラになってしまうことが多く、昼間に会ったことをサイちゃんは知らないだろう、と。
多重人格の人に出会ったのは初めてで、びっくりしながらも同年代の女の子がいることが、私はただ嬉しかった。
「特に気にしなくていいし、その時の人格に対して接してくれればいいし、接しなくてもいいから。」と、高野さんも言うので私も特に何も気にすることなく、そのまま高野さんとあれこれおしゃべりをして、深夜1時過ぎに眠りについた。
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翌朝、ドタバタと走る足音に目が覚める。そして間も無く勢いよく寝室のドアが開かれ「朝!!」と、サイちゃんが布団にダイブしてきた。
この日は高野さんの農園に行き、1日中お手伝いをした。その間、サイちゃんはいつ変わったのか”30代くらいの女性の人格”だった。昨日から今までの一部始終を察したのか高野さんから聞いたのか、ちょっぴり恥ずかしそうにしていた。
あの元気な”サイちゃん”とは真逆と言ってもいいほど大人しく、気回りがきいて言葉も動作もとにかく綺麗な人だった。
空が赤く暮れてきて、サイちゃんはすっかり5歳の人格に戻り泥だんごを作って並べていた。
高野さんは、私とサイちゃんに近くのスーパーへお使いを頼んだ。
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スーパーへの道中、しりとりをしながら歩いた。張合いもなく私がポロッと「みそラーメ"ン"」と言ってしまい速攻で負けたのだけど。
「ねえ、家族になるの?」と、サイちゃん。
「ううん、明日の朝には帰るの」と、私。
「ふーん」と、明らかに声のトーンが下がりながら、サイちゃんは続ける。
「どこに帰るの?」
ああ、なんて簡単で難しい質問なんだろう。この時の私は、家族や故郷に向き合うことがたまらなくつらくて、逃げるように旅をしていた。
「帰りたいところ」と答えると、サイちゃんは首を傾げて納得いかないような表情をしていた。でも、それ以上は聞いてこなかった。
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高野さんが夕飯の支度をしている間、私はサイちゃんと1000ピースのジグソーパズルをしていた。サイちゃんは絶え間なく私に質問を投げかける。
「好きな色は?」「外国には行ったことある?」「雲にさわったことはある?」「虹の両端に行ったことがあるか?」「虫は1人で倒せる?」「あだ名はなに?」「海の水は本当にしょっぱいの?」「なんで髪の毛が長いの?」
「ここに来る前は、どこにいたの?」
と、サイちゃんが聞く。
「福島っていうところ。知ってる?」
と、答えた。
「うん。じじがいるよ」
と、サイちゃんはにんまり笑った。
高野さんは、もともと福島で暮らしていた。
けど震災によって家が全壊し、旦那さん(=じじ)を亡くした。そして今は、福島から遠く離れた地で暮らしている。
「ばばちゃん、痛い痛いって言ってた。ぎゅーってするんだって。」
と、サイちゃんは私の胸に手を置いた。
「ももちゃんも、痛かった?」
心配そうに私の顔をのぞき込むサイちゃん。
「私は、平気だよ」
だって私は、何も失っていないんだから。悲しむ資格なんてないんだから。
もっとずっとつらかった高野さんがすぐそばにいる手前、本当の気持ちは言えなかった。
「痛いの痛いの、飛んでいけ」
サイちゃんはぎゅっと、私を抱きしめた。
平気って言ったのに。私は大丈夫なはずなのに。
優しくてあったかいサイちゃんの胸の中で、涙があふれた。
「痛いの痛いの、飛んでいけ」
サイちゃんは繰り返しながら私の頭を撫でた。
「痛いの痛いの、飛んでいけ」
後ろから、夕飯の支度を終えた高野さんが抱きしめ、一緒に優しく唱えた。
私はあったかい2人に挟まれ、泣いた。
カレーの匂いと涙の味がする、あったかくてさみしい夜だった。3人で夜更かしをして、ジグソーパズルが完成するまで他愛のない話に笑った。
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すっかり寝静まった夜。私はトイレに行きたくなって目が覚めた。
眠たい目をこすりながらトイレを済ませ、水を飲もうと台所に行くと、サイちゃんがいた。
「あれ…起き、とまで言いかけたところで、サイちゃんに押し倒された。同時に、サイちゃんが持っていたコップが落ちて割れ、破片が私の腕を切った。
一瞬、またふざけて戯れようとしているのかと思ったけど、サイちゃんの目は笑っていなかった。
この時のサイちゃんは、サイちゃんではなかった。目はまっすぐ私を見ていたけど、その目は全くの別人だった。
言葉を発する間もなく、サイちゃんの唇によって口を塞がれる。
びっくりするほどサイちゃんの力は強かった。
何も抵抗できないまま、サイちゃんの思うがままだった。
今、目の前で何が起きているのか、どうしてこうなったのか。よく見えない。よく聞こえない。
物音に驚いて駆けつけた高野さんが、サイちゃんの腕を引っ張り、頬を強く叩いた。サイちゃんは、ハッとして、すぐさま泣き崩れた。そのまま2階にある自室へ駆け出し、こもって泣いていた。
「ごめん、ごめん、ごめん、」と、高野さんは何度も繰り返していた。
完成したはずのジグソーパズルは、バラバラになってピースがあちこちに散乱していた。腕を流れる血はあったかくて、心臓の音が響いていた。
乱れた衣服を整えて傷口を洗い「私は大丈夫なので」と寝室に戻った。
何事もなかったかのように布団に潜り、再び眠りについた。
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翌朝、リビングのテレビがついても、朝ごはんが食卓に並んでも、私が帰る時間になっても、サイちゃんは部屋から出てこなかった。
サイちゃんの部屋の前で「サイちゃん、ありがとう」と告げ、高野さんが運転する車に乗った。
高野さんから聞いた話によると、”サイちゃん”というのは本名ではなく、サイちゃんの実の両親に「うるさい」と何度も何度も叱られて、”さい”の部分を自分の名前と勘違いしたんじゃないか、ということだった。
昨晩のサイちゃんは男性の人格で、暴力的になってしまうことが多く、サイちゃんの髪の毛が短いのは男性の人格が短く切ってしまうからなんだとか。サイちゃんの首元には小さな傷跡がたくさんあるのだけど、それは髪を切る時に自分の首まで傷つけてしまってできた傷跡だそう。
どう人格が入れ替わるのか、サイちゃんの中には何人いるのか、どうしたら本当の人格でいられるのか、高野さんにも分からないのだそう。
私はそれ以上、何も聞けなかった。
高野さんに車で駅まで送ってもらって、この日は5時間ほど電車に揺られ別のまちへ旅を進めた。
何度も、夢だったのかな、と思ったけど腕の傷が痛むたびに、最後に「またね」と言えなかったことを後悔した。
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サイちゃんとの思い出は、ここまで。
最後に見たサイちゃんの顔は、もうほとんど思い出せない。
きっと、いつかまた会えると、なんでかそう思っていた。
でも、この出会いから半年が経って、高野さんは他界した。
高野さん以外にサイちゃんと連絡をとる術はなかった。1年近く経って、高野さん家を訪れると「高野」とあったはずの表札は「渡辺」に変わっていた。サイちゃんの部屋があった2階の窓からは、軽やかなピアノの音が聞こえた。
もうサイちゃんは、そこにはいなかった。
あの時、またね、って言えばよかった。
もし一生このまま会えなくても、私はまたサイちゃんに会いたい。だから、またね、って。
忘れたくないのに、ジグソーパズルみたいにどんどんピースが欠けてぼやけてしまう。
顔もよく覚えていない、どこで生まれて、どこに住んでいるかも分からない、本名すら知らない女の子、サイちゃん。
私はあなたにまた会いたいです。
もしこの命が尽きる前に会えたなら、私は真っ先に抱きしめて唱えるんだ、「痛いの痛いの飛んでいけ」って。
それじゃ、またね。
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