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『失敗の本質』を読む④~日本軍敗北の組織上の要因Ⅱ

前記事はこちら→『失敗の本質』①『失敗の本質』

「日本軍がなぜ惨憺たる敗北を喫したのか」を記す『失敗の本質』ですが、今回は「組織」をテーマにした失敗の分析を書いていきます。「組織上の失敗要因」を著者は次のように大きく分けました。

①「おともだち」人事で組織構造を作った

②組織も作戦も属人的だった

③過去の失敗についての学習を軽視していた 

④結果よりプロセスを重視した評価    

①②については前回記しました→『失敗の本質』③はこちら      

 今回はこのうち③と④について記載します。

1.③過去の失敗についての学習を軽視していたこと

敗北をしたときは、失敗の蓄積、伝播を組織的に学習するチャンスでしたが、日本軍はこの戦争を通してまるで学習をしようとしませんでした。ノモンハンの敗戦で陸軍は装備の近代化をする代わりに兵員を増量させ、その精神力の優位性を強調しました。こうした精神主義は①敵戦力の過小評価②自己の戦力を過大評価につながりました。「敵の装備は優勢だが、こちらのほうが精神力が上だから!」や「相手の弾薬のほうが多いが、こちらのほうがやる気があるから一発必中だ!」などのような言説が出ました。海軍は日露戦争以来の作戦、正面からの一斉突撃という戦法はまったく効を奏さなかったにも関わらず、何度も繰り返されました。ガダルカナルで大敗を喫した後もこの戦法を遵守していました。また、組織学習の情報の共有化システムが何もなく、日本軍内の中では自由闊達な議論が許容されることはありませんでした。そのため、情報は個人や少数の人的ネットワークの内部にとどまり、組織で知識や経験が伝達されることが少なく、実際に作戦を立てるエリート官僚は現場から遠く、現場の状況を良く知る人物からの意見が取り入れられることはありませんでした。

米軍の第三艦隊参謀長のカーニー少尉は言いました。「どんな計画にも理論がなければならない。理論と思想にもとづかないプランや作戦は多少の空気の振動以外は具体的な効果を与えられない」

そのうえ日本軍は時として事実よりも自らの頭のなかで描いた情況を前提に軽視し、戦略の合理性を確保できませんでした。最後に大敗を喫した作戦終了後に作戦の内容について調査したり研究をしたりすることはありませんでした。戦後、作戦参謀は「敗戦の内容について研究会をするべきだとわかっていたが、突けば穴だらけの作戦だったことはわかっていたし、みんな反省していたから死人に鞭打つ必要ないよね」ということになったのだ、と語りました。これは人間関係を重視するあまり、失敗の経験から積極的に学び取る姿勢にかけていたことがわかります。

2.④結果よりプロセスを重視した評価

ノモンハン事件の後、それぞれ責任者はその任を解かれました。(クビになったということ)ですが、作戦の実質的な責任者の服部中佐と主担任の辻少佐は更迭にとどまりました。これは参謀人事を掌握する参謀本部の移行で、「将来必要な人材」という理由によるものでした。その後ふたりは陸軍統帥部の幹部となり、最終的にはガダルカナル島での壊滅的打撃を受けることになりました。

このように、日本軍はたびたび参謀の責任、越権行為、専断命令があっても責任を問おうとしないことがありました。戦闘失敗の責任を転勤で解消し、いつのまにか中央部の要職についていることも多かったのです。これには一定の法則があり、「積極論者が過失を犯した場合多めに見て、自重論者は卑怯者扱い。過失があれば手厳しく責任を追及する」というものでした。日本軍はいつも結果よりプロセスを評価しました。個々の戦いでも、戦闘結果より重視するのは、意思ややる気でした。そのため、補給がないなどの理由で撤退したリーダーは退役、積極的に戦う判断を下したリーダーは責任を取ることはなく、次の戦いに「仇討ち」の機会だといわれむしろ責任者として参加をすることも多く、作戦に個人責任の不明確さは正しい評価ができない組織となりました。論理より声の大きいものの突出を許容しました。そういったことが作戦結果の客観的評価、蓄積を制約してしまいました。

3.失敗の本質

①日本において初期の進攻作戦(奇襲による白兵戦)が成功したので、それ以降の作戦はすべてその「成功体験」をもとに作成されました。その後、作戦の失敗が続いてもその変革ができませんでした。こういった場合、既存の知識を疑い、あらたな知識を獲得しなければなりません。そのためには既存の成功体験を捨てる「学習棄却」つまり、自己否定的学習が必要になります。しかし、日本軍は「成功体験」を強化することに徹しすぎて「学習棄却」に失敗しました。

②日本軍の組織は極めて安定的でした。彼らは年功序列で学歴主義の昇進システムにより、思索せず、読書せず、上級者になるにしたがって反対者もなく、批判を受ける機会もありませんでした。そのため組織に緊張の創造ができず、組織の劣化を自己超越(精神主義)に求めました。やる気によって決まる業績評価は中央から来た指揮官のつけをすべて現地軍が負うことになりました。「能力を超越して敵を討ち果たせ」というだけの指示に従い責任と義務を拡大させていったのは現地軍で、組織は疲弊してくことになりました。

この本は1991年に出版されました。作者は今の社会も、戦争による「失敗の本質」はそのままなぞることができているのではないか、と考えています。





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