忖度・同調圧力にとらわれてしまうわけを知る『空気の研究』を解説します②空気から逃れる方法
日本の道徳は「差別の道徳」である。この事実を世の中に知らしめることが大切だ。と『空気の研究』を記した著者、山本七平は言いました。しかし、その論評が世の中に発表されることはありませんでした。なぜなら出版サイドが「そんなことは今発表できる空気ではありません」と言ったからです。前回著者は
空気とは非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、その抵抗者は異端として社会的に葬るほどの力を持っている。
といいました。口では「論理的判断」のていをなしながら実際には「空気的判断」をするという日本社会において「空気」から逃れるためにわたしたちは何を考えればよいのでしょうか
1.臨在感を把握しなおす。
本書には臨在感というワードがよく出てきますが、臨在感というのは、「感情とものごとの因果関係とを結びつける」ことです。
例えば、カドミウムは自然界にも微量ですが存在しており、イタイイタイ病の原因はカドミウムを「長期にわたり過剰摂取したため」とみられています。そこで、カドミウムでできた金属棒を記者会見で記者たちに見せたところ、彼らは一目散に逃げ出しました。カドミウムの金属棒を見ただけでは人は病気にはなりません。「カドミウム=イタイイタイ病」と因果関係を結び付け、目にしただけで逃げ出してしまうのです。
このような例はたくさんあります。「神社に行ったからいいことがおきた」とか「この病気になったのは〇〇だったからだ」まで幅広く。。。この「〇〇なのは××だからだ」という言い方はとても断定的で、わかりやすい感じがしますがそれがすべてではない、ということを考えるのはとても大切です。
2.対象を相対化すること
「空気」は世界中の諸外国にもあるのでしょうか。結論からいうと、「空気」がない国はありません。ただし、対処の仕方、「空気」を許すかどうかが異なるのです。そもそも日本語でいう「空気」をギリシャ語ではpneumaといい、大いなるものの意でした。ラテン語ではアニマといいアニミズムの語源でもあります。総じて人々を拘束する目に見えない力、といった意を備えており、「空気」はいつでもどこでもあったのだということがわかります。
ではなぜ、この「空気」の力をほかの国では抑えられ、日本では抑えることができないのでしょうか。それには宗教観が違うからでは、と作者は言います。一神教の世界では「絶対」という存在は一神のみです。ゆえに、ほかのすべてのものは神の名のもとに徹底的に相対化され、すべて対立概念で把握されます。これでは「空気」は発生しないか、もしくは発生したとしても相対化されるのです。
日本ではどうなのでしょう。日本で一神教の考え方はなじみませんでした。つまり相対化ではなく、絶対化の対象が無数にあったと考えられます。絶えず絶対化する対象から対象へ目移りして、これに呪縛されたようになる。そして、次に移ったら前のことはすっかり忘れる、その繰り返しでした。あとで振り返ってみると右に左に行き過ぎた結果まあまあ相対化した、ということも多く、これはアニミズム社会の伝統的な行き方でもあります。公害か経済か、とかコロナか経済かなど、過去も今も繰り返し見られる姿でもあります。
対象の相対化を排除して絶対化すると、「敵」に支配されるので、終始相手に振り回されてしまい、根本的に解決する自由を失ってしまいます。つまり、「玉砕」となってしまうのです。この世界の破滅的危機は「空気」が崩れてほかの「空気」に変わらなくなること。純粋な人間はその絶対的空気を保持し続け半永久的に固定化し、永続的に制度化するところから始まります。これはファシズムより厳しい「全体主義的拘束主義」である、と作者は書きます。
簡単にいうと「空気」を固定してみんなで走り抜けましょう、作戦です。これは短期決戦であればなんとか行けないことはないのですが、長期的には無理なので成熟した社会においては空気支配からやはり脱却しなければならないのです。
物事をきちんと相対化して考えることで何がおこるのでしょうか。
言葉が偶像化することを抑えられます。「言葉の偶像化」とは、かっこいいスローガンになんとなく踊らされてしまうことです。かつては「欲しがりません、勝つまでは」などがありました。
言葉の偶像化が止められたとしても、やはり「空気」は残ります。しかし、「そういう空気だったし」で終わらせてはいけません。なぜなら、会議で決まったことと、そのあとでおしゃべりしてでた結論は違っていたりしませんか?
何もないとき、近代以前はのんびり空気で決定して絶えず右に左に振られていても問題はあまりありませんでした。問題があっても「それは空気のせい」にできました。もしここが中東や欧州のように、滅ぼしたり、滅ぼされたりが当然の国々だとしたら…?いちいち空気に決定されていては即滅亡してしまっていたでしょう。いちいち総玉砕していては、体力が持ちません。
3.多数決は致命的
「空気」のコントロールがどういった場で出てくるのかというと、多数決の場です。多数決での空気支配は致命的だと作者はいいます。
多数決は決して民主的ではありません。例えば「これからはAさんに掃除を全部やってもらいましょう。賛成の人は手を挙げて」という多数決の決定は民主的?という話です。多数決の平等っぽい原理を装ってこれを空洞化させるのは「空気の支配」です。本来多数決原理というものは、正否を明らかにするものではありません。論証も証明も多数決原理の対象ではないのです。先ほど書いた、会議の結果とその後のおしゃべりでの結論が違う、ということと一緒です。ですから、空気にコントロールされないために必要なことは常に「水を差す」ことです。