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『失敗の本質』を読む②~日本軍敗北の戦略上・組織上の失敗の要因を知る
前記事はこちら→『失敗の本質』①
日本軍がなぜ惨憺たる敗北を喫したのか、それについて主な大規模戦闘における共通の戦略上の失敗があることを書きました。その各論について述べていきます。
1、統一されない戦略目的
本来軍隊は巨大な組織なので、明確な方向性を欠いたまま指揮をすることはありません。ところが日本軍ではしばしばこうしたことが起こっていました。ノモンハンでは国境線をめぐる大きな作戦にも関わらず、大本営は明確な指示を伝えることはありませんでした。それはその後の関東軍の独断専行を許容することになってしまいました。本部は「使用兵器の制限」などの微妙な表現で、あまり大規模に戦闘しないでほしい、という「気持ち」を伝えるにとどまりました。
ノモンハン後も、日本軍は全体的に、どう「戦いを終結させるか」がはっきりしない作戦を続けてしまいました。目的が明確でない作戦は、局面で重大な判断ミスを引き起こすことになりました。日本軍はすべての戦いにおいて「作戦ごとの全軍一致した目的」を確立することに失敗しています。
ミッドウェー海戦の敗戦は、米軍が暗号解読により日本軍の作戦をきわめて詳細に知りえていたことに加えて、ハワイで指揮をとっていたミニッツが指示を明白(空母以外は攻撃してはいけない)にしたため戦力の集中ができたのです。
作戦目的の多様性、不明瞭性を生む最大の原因は、何だったのでしょうか。著者は個々の作戦を結合し、その戦い全体をできるだけ有利に終結する構想が欠如していたことにあったと言います。
2、短期決戦の戦略志向
そもそも戦争を始める際にも「ある程度の人的・物的損害を与え南方資源地帯を確保して持久戦にもちこめば、米国は戦意を喪失するのではないか」という漠然とした終末観しか持っていませんでした。
そのため日本軍は、どの戦闘においても「とにかく短期決戦」を指向する性格がありました。日本海軍の訓練の「最終的な目標」は太平洋を渡航してくる敵艦隊に短期決戦を挑み、勝利する!というのが唯一のシナリオでした。けれど、「決戦」に勝利したとしてもそれで戦争が終結するのか、また負けた場合はどうするのか、については当時ほとんど真面目に検討をされませんでした。
開戦に先立って、「日本が勝利する」という見通しを立てたものは当時の最高責任者のなかにほとんどいませんでした。陸軍の参謀総長は天皇に「絶対に勝てるとは言えない」といい、首相の東条英機も「短期終結ならば、もしくは…」と言っています。長期の見通しがまったくない状態で日米開戦に踏みこの短期決戦思考は個々の作戦でも反映しました。その短期志向の戦略は攻撃重視で決戦重視になりますから、防衛、情報、諜報に関する無関心を生みました。特に情報、諜報活動は圧倒的に劣っていました。
3、空気の支配
短期決戦を目指すあまり、日本軍は戦略の策定を事実に基づかず情緒や空気の支配で決定する傾向がありました、当時は科学的思考が組織の思考として共有されていなかったために、インパール作戦の時、「必勝の信念」で出撃し、戦艦大和の特攻の時も理性的判断が情緒的判断に道を譲ってしまいました。空気の支配する場所では、あらゆる議論は最後は空気によって決定されることは山本七平も著書(『空気の研究』についてはこちら)で書いていました。その通りのことがここで行われていたのです。
日本軍の諜報活動は、基本的に現場から上がってきた情報よりも、もともと参謀本部が「想定していた」独自の主観を重視する傾向がありました。実際に米軍のガダルカナル進攻(昭和17年8月)は本格的な反攻の第一歩だったわけですが、この情報が艦隊が米国を出発した段階で日本の参謀本部に伝えられたにも関わらず、「米軍の本格的反攻は昭和18年中期以降だ」とする開戦当時の情勢判断に固執し、その重要な報告は無視されてしまいました。
インパールで日本軍と戦ったスリム英第十四軍司令官は「日本軍の欠陥は、作戦計画が仮に誤っていた場合に、これを直ちに立て直す心構えがまったくなかったことである。」と指摘しました。日本軍は戦略の策定が状況変化に適応できなかったのは組織のなかに論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がありました。それを、山本七平は「言葉を奪った」と例えました。
4、狭く進化のない戦略
日本軍が好む戦略パターンは戦争を通してたったひとつでした。それは「緒戦の決戦で一気に勝利を収める奇襲戦法」でした。陸軍はそもそも対ソ連戦闘(夜襲)しか指向をしていませんでした。それよりは広い視野を持っていた海軍も「先制+奇襲集中攻撃」一辺倒で、「夜陰に乗じた駆逐艦の魚雷による殲滅作戦と超人的な能力をもつ個人による見張り員(訓練により8000メートル先の軍艦が補足できた)」に頼っていました。これらは、兵士の極限までの練度の追求により成り立ってきましたが、そのために「必勝の信念」という精神主義とあいまってしまい、結果として技術の軽視につながりました。レイテを目指していた艦隊が米軍によって全滅させられたのは、米艦隊の優秀なレーダー技術でした。
時々、この「練度の高い兵士の活躍」により相手に大打撃を与えることもあり、その小手先の器用さが戦術、戦略の失敗を覆い隠してしまうことがありました。そのためにその後、日米の戦力バランスが崩れ始めると器用さだけでは対抗できなくなりました。そのうえ、日本軍の技術が「精神論」で足踏みしている間に米軍の技術はどんどん進化して驚異的な視力でも補足できないほど遠くからレーダーで敵の補足をし、相手の倍の戦力で、最新の砲弾をもって迎え撃たれる、といったことが続きました。
なぜ、このように「先制+奇襲・集中」が好きなのかというと、日露戦争の日本海海戦にまで遡ります。このとき日本が世界に驚きを与えるほどの快勝をしたために、その時の作戦が唯一至上の戦略オプションになりました。それ以来どんなに情況が変化しても、その変化に応じて書き改められることはなく、経典として硬直化してしまいました。
陸軍が夜襲のみを戦略としたのも、ノモンハン以前に陸軍伝統の夜襲が成功したからでした、この戦い(張鼓峰事件)で日本軍は夜襲の有効性に手ごたえを感じ、ソ連軍はその夜襲法の手の内を知り、その対策を取りました。その後、日本軍は夜襲。迂回作戦を繰り返すことになり、作戦パターンは時間の経過とともに進化することはありませんでした。本来、一つの作戦に対し、変化したり前提が変わった場合の対応計画をつくるものですが、インパール作戦の牟田口司令官は「作戦不成功の場合を考えるのは必勝の信念と矛盾する!」と主張しました。日本陸軍の「必勝の信念」は精神主義の表現ですが、「歩兵操典」という陸軍綱領に「作戦は攻勢をもって速やかに敵軍の兵力を殲滅すること」とあり、統帥綱領にはいったん決定したらその貫徹をすること、とありました、こういったことを細かく規定するのは日本独自(世界で唯一無二)のものでした。これらの綱領は海軍と同じく経典化し、自らを縛って変化に対応できなくなりました。
5、「零戦」「大和」に偏りすぎた予算配分
日本軍の兵器はある部分については突出して優れているが、ほかの部分は絶望的に立ち遅れている、といった具合でした。「零戦」「大和」はその象徴的なものでした。
「大和」はレイテ作戦で初めて海戦に加わり、超大主砲から砲弾を発射したものの、十分その威力を発揮できず、レイテ湾を目前に反転し沖縄戦で戦艦特攻として出撃途上撃沈されました。「大和」の建造費は空母3隻が余裕で作ることができるくらいありました。4年かけて完成した「大和」は射程距離が4万キロあり、魚雷にも一定の強度を保つ戦艦でしたが、対空能力には弱点がありました。そもそも遠距離砲撃に必要なレーダーの性能が悪かったうえに、レーダーと連結した射撃指揮体系が立ち遅れていました。頼みの日本海軍自慢の砲術についても練度が不足していたため、「大和」も「武蔵」も海底に没してしまいました。
「零戦」においても航続力、スピード、戦闘能力は世界最高水準のものではありましたが、材料に超々ジェラルミンを使用したため、入手と加工が極めて困難、大量消耗、大量生産ができませんでした。対して米軍は「零戦」には及ばない性能でしたが、戦争は一大消耗戦である、という考えのもとで、勝利を収めるためにはあらゆる兵器を大量に生産し続ける必要があることを明確に認識していました。
日本軍はその上、「零戦」「大和」のようなハードウエアの開発に対し、情報システム、レーダー技術などのソフトウェアの開発が弱体でした。先制奇襲作戦は、情報の軽視につながりましたが、そのために早く補足されて先制ができないという結果にもつながり、短期決戦思想が兵器があっても弾丸がなかったり、艦艇があっても石油がない、ということが度々見られました。
組織上の失敗要因分析については次の記事にあげたいと思います。1