忖度・同調圧力にとらわれてしまうわけを知る『空気の研究』を解説します③水を差す
「空気」によって人々は法律以上のちからを持ち、それへの感情移入を絶対化します。そして,その対象からあらゆる法の保護をはく奪させます。「空気」にとらわれると、その対象に対し恐るべき不寛容さを示し、その人の人権すら一切無視して当然となります。
周恩来はかつて田中角栄にこのような言葉を送りました。
「言必信 行必果」
やるといったら必ずやる!やった以上はどこまでもやる!という意味です。この場合日中友好をやり遂げようね、というお話です。
この言葉には続きがあって、「これすなわち小人なり」と続きます。
小人は子どもという意味ではなく、ちっちゃい人間、という意味でもありません。訳すなら「おっちょこちょい」という意味です。作者はこれこそ日本人的だと言っています。その場その場で空気に支配されて右に左に先取りするため猛ダッシュ。ちょっとおっちょこちょいな人。日本ではこういう人は空気が読める、純粋な人だととても評価されがちです。しかし、「空気」に支配されている問題点は前回、前々回で述べた通りです。今回は、「空気」に支配されないために必要な「水を差す」ことについてです。
1.「水」を差す
場の「空気」で物事を判断するわたしたちに有効な手段として「水を差すこと」だと作者はいいました。「水を差す」とはなんでしょうか。それは一言です。その場の空気が崩壊する一言のことを言います。通常、最も具体的な目標の障害となる核心をつくことば。それを口にすることによって人々は現実へと引き戻されます。具体的には、「それを実現するにはお金がないよね」などの言葉といえばわかりやすいでしょう。
つまり、「水」は通常性です。どのように「空気」を盛り上げたとしても通常性を基盤とした「水」をさすことができれば、「空気」が全体を拘束していてたとしても自然と「水」が差されて「空気」の錯覚から逃れられるはずなのだ、と作者は書きました。
しかし、通常性が共有されなければ、「水」を差しても意味がない。そして、差す「水」があったとしても、差せない空気が全体を覆い包んでしまうことも多くあります。「空気」で支配したい者は、「水を差す人」を罵詈雑言で沈黙させてしまうからです。そして、日本人の通常性は情況倫理です。
わたしたちは、何のための、誰のための「空気」なのか、意図的な前提がないか、何かを押し付けることで都合よく一部の現実を隠蔽していないのか、注意しなければなりません。
2.「水」を薄める情況倫理
かつて、インドから中国へ、中国から日本に仏教が入ってきました。日本は現在仏教国のひとつであると言えると思いますが、もともとの教義と日本での一般的な仏教は似て非なるものです。浄土宗的考え方はもともとの仏教にはありません。また、徳川幕府のもとで庇護されて広まった儒教でも同じことが言えます。孔子の儒教の教えと日本での儒教は違うものになっています。
日本では常にその物事の重要な骨組みが抜かれ、名は残ってもまったく別のものになるのです。すべてのものは少し薄まる特徴があります。作者はこの物事を薄める力を「酵素」と名付けました。まずそのものの根幹を内部浸食し、そのものを変質させ、なおそれがもともとそういうものだったと思わせる力があるからです。
日本では戦争が終わったらみな一斉に考えをすげ替え、さっさと過去を脱ぎ捨てました。当時の上級将校などはあからさまで、降伏を聞いた瞬間から自分の自宅と家作に思いを馳せた記録が残っています。この例に限らずこういったことは日本中でしょっちゅう起こっていることです。しかも、今も昔も変わりなく。そしてのちのち彼らは必ずこう言います。
①「あのときはああするしかなかった」
②「当時の状況を考えれば、責任はこの状況を作り出した者にある」
この言葉から何が欠落しているのでしょう。
個人の責任です。
こういったことを日本的情況倫理と作者は名付けました。情況倫理は常に個人を無視します。なぜなら、「その時の状況への対応」だけが物事を「正当化する基準」になっているからです。
「あのときはそういう状況だったから、しょうがない」とする考え方の背後にあるのは、「自己無謬性」「無責任性」です。「あのとき」にどういう対応をするかはその個々人で違うはずです。しかし、それを等質に反応してしまうのは、日本性平等主義とでもいうものです。違うことを許さない構造があります。
3.一君万民の情況倫理
個人の責任を省き、その時のその情況への対応が正当化される社会では倫理観が固定されない、と作者は書きました。固定倫理とはたとえばメートル法のようなもの。不変で変わらないものだと考えてください。日本にいるとわかりづらいかもしれませんが、例えばキリスト教社会なら、社会に決して不変の倫理が共有されているものです。それはメートル法くらい誰でも同じように認識するものです。この考えは仏教国でも同じです。しかし、さきほど書いたように、日本の仏教観はそもそも他国と少し違います。そして倫理感も固定されたものではなく、その場その場で流動的なものになりました。
日本の通常性は情況倫理です。それは、戦時中、一学期に先生が黒板に「大和魂」と書き、同じ先生は戦後になった二学期に「民主主義」と書いた、という話からわかるように「大和魂」だろうが「自由と民主主義」だろうがその底に流れているのは同じ考えなのです。
一君万民の情況倫理がどういったものであるのかは学校を考えてみるとわかりやすくなります。一君は先生です。万民は生徒。教室の場では先生が絶対的存在として生徒を管理します。先生の機嫌を損ねる生徒はいい成績がもらえない。先生が生徒をからかったらそれがいじめの引き金となる。先生のもとでは生徒は(いちおう)平等です。この先生が情況倫理を作る支点です。先生はゴムでできた尺度を持っていて、相手によって、時と場合によって、そのゴムの長さを自在に変えながら教室を管理するのです。先生が作る空気を生徒たちは必死で読みその尺度の範囲内で自由に過ごすことができるのです。それなりに。個人の自由は排除されるのですが。