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七夕に寄せて

もうすぐ七夕です。

七夕は本来旧暦7月7日ですから、現在の暦ではだいたい8月中旬頃。立秋の後になります。ちなみに今年は8月14日が7月7日に該当します。

万葉集にはこのような歌が残っています。

天の川安の渡りに舟浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ(万・2000)

天の川に船を浮かべてあなたを待っているとあの人(織女)に告げておくれ、という意味の歌。秋の風が水面に吹いている、という表現になるのは七夕は秋の季語だからです。8月になると昼間は暑くとも、夜になると涼しい風が吹いてきたりしますね。そんな風景を思い浮かべてください。

と、いっても現代の気候ではなかなかそれを体感しづらいかもしれませんけれど。

今回は七夕についてお話します。


1.七夕はいつ発祥したのか

棚機(たなばた)は古代日本における禊(みそぎ)の行事、つまり穢れ(けがれ)を清める行事です。毎年稲の開花時期に合わせて、主に農村部で盛んに行われていたと言われています。

織女と牽牛の伝説については、文選の古詩十九首に入っているのが初出とありました。南朝梁の昭明太子によって編纂された「文選」は春秋戦国時代から当代まで伝わるさまざまな詩文約800を収めています。そこに収録された古詩十九首は詩の範とされ、また五言の冠ともされて、後代に大きな影響を及ぼしました。

そのなかで七夕伝説に触れているのはその十である、『牽牛織女七夕の歌』

迢迢牽牛星  迢迢(ちょうちょう)たる牽牛星
皎皎河漢女  皎皎(こうこう)たる河漢の女
纖纖擢素手  纖纖として素手を擢(ぬき)んで
颯颯弄機杼  颯颯として機杼(きちょ)を弄す
終日不成章  終日 章を成さず
泣涕零如雨  泣涕(きゅうてい) 零(お)ちて雨の如し
河漢清且淺  河漢 清く且つ淺(あさ)し
相去複幾許  相去ること複(ま)た幾許(いくばく)ぞ
盈盈一水間  盈盈(えいえい)たる一水の間
脈脈不得語  脈脈として語るを得ず

美しい詩ですね。なんとなく、意味も分かりますよね。はるかとおい牽牛を想って、清らかな江漢の女(織女のこと)がしくしく泣いているんですねえ。

文選が編纂された南北朝時代に、夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った乞巧奠(きこうでん)と七夕伝説は一緒になって日本に伝わりました。

2,日本における七夕

こうして日本にある穢れを清める行事と、仏教文化と、仏教以前の風習(死んだ人の魂は山に入って年に一度降りてくる、的な)と、針仕事や技芸の上達を願う乞巧奠とが混ざって貴族の行事となったのは奈良時代からになります。願い事を書いて川に流したり、乞巧奠に合わせてさまざまな七夕の遊びをしたりしました。そこでじゃあ、七夕だから遊びも七つ。となるのがなんとも日本らしいもので、七夕の七遊という行事として「お香、立花、和漢詩、和歌、管弦、囲碁、揚弓(もしくは、蹴鞠、貝覆)」というものがなされました。

それは遊楽図に残されています。

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こちらは現在に残っている「遊楽図屏風」。

両隻にわたって、人々がありとあらゆる遊楽に打ち興じています。これは近世初期に描かれた妓楼遊楽図の中でも最も初発的な作品と位置づけられています。相応院に収められた作品です。

「遊びをせんとや生まれけむ」とは、平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の有名な一節です。

中世以降には、中国の士君子のたしなみとして奨励された「琴棋書画(きんきしょが)」(琴・囲碁・書道・絵画)の影響を受けて、「琴棋書画図」が屛風や襖絵に数多く制作されました。近世に入ると、花見や風流踊りに興じる開放的な気分にあふれた「野外遊楽図」が流行しますが、江戸時代前期には幕藩体制が安定に向かうとともに、室内で親密に遊ぶ様子を描く「邸内遊楽図」に中心が移ります。画面を眺めると、琴は三味線に、囲碁は双六に姿を変えて、「琴棋書画」の宴に見立てて描かれた遊楽の場面が幾つも見出せます。

こちらは以前サントリー美術館で行われた企画展『遊びの流儀 遊楽図の系譜」(2019年)の案内文です。

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