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博物館に行こう③「香りの器~高砂コレクション」(パナソニック汐留美術館)

パナソニック汐留博物館で開催中の「香りの器~高砂コレクション」を紹介しています。最初人々は香りの出る樹脂や葉などをオイルに浸けて香りを移しそれを肌に塗って体を清めるのに使用していました。また、香油を焚いたときの煙は天に通じるとされていました。(前半はこちら→

①香油から香水へ

アルコールの発見は香油を香水へと発展させました。酒作りでいえば紀元前8500年前のメソポタミアではすでに酒製造がなされていましたが、香水の登場にはもうしばらくかかりました。

きれいな花の香りをずうっと取っておきたい。それは人間の本能のようなもの。けれど花の香りはすぐに薄まってしまう。化粧品に混ぜ込んだり、オイルに浸けても、お風呂に入れても、部屋に敷き詰めても長持ちには限度がありました。だいたい、生花きったなくなるしねえ。

花の香りを抽出して、保存できないものだろうか…

お待たせしました。アルコールと水蒸気蒸留法の登場です。10世紀ころ、イブン・スイーナーというイスラムを代表する知識人が素材を蒸留してアルコールにした香りを作り出しました。最初にできたのはバラの香水ですよ。(やっぱりね)

調香師の始まりはメルキュティオ・フランバガ二というフランスの植物学者です。(現代調香の父と言われています)さまざまな植物性の香りを原料とし、少し動物性の香り(麝香猫とか麝香鹿からとった香料)を混ぜると香りのよさが格段に上がる、ということを発見していたのです。

さて、メディチ家や、十字軍により各地に広まった香水を人々は熱意をもって受け入れました。そしてできた香水瓶の展示は美しい~~~もう、美しい。

こちらはアールデコの香水瓶。ウィーン工房の近くで製造されたそうです。

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そしてこちらが、ボヘミアングラスの香水瓶。

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どちらも、素敵です!!

そのあとはルネ・ラリックやバカラの香水瓶。もう、これはアート。

これらは実用品でもあり、身に着ける(香りを)ものでもあり、やはり香りは人の歴史の傍らに常にあったものなのだと思いました。

②日本の香道具

展示の最後は日本の香り、ということで香道具や香木の展示がありました。

江戸時代大名家では香道具も嫁入り道具の一部でした。このころ多く作られたものが十種香箱、と呼ばれるもので、香炉や香を聞くときに使う匙や箸、つまり火道具のセットや組香をするときに香包に包まれた香木を入れておく総包、香を当てる組香をするときに使う香札…などなどが素敵にセットされてひとつの箱に収まるすぐれものでした。漆器としてみるだけでも美しい香箱、沈箱などもたくさん作られました。

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こちらが十種香箱になります。これは和宮に伝えられているものなのですが、(江戸東京博物館「和宮江戸へ」展より)これだけの道具が奥の箱に収まるようになっているんですね。機能的!今あまり十種香箱作ろう!という人はいないとは思いますがもし、余裕のある方は作ってください。(技術の継承をしてほしいので)

③そして、香木へ

今回は香木もいくつか展示してくれていました。それについてInstagramにあげたので、こちらにまとめています。Instagramと内容がかぶる部分もありますので、ご了承くださいね。

その他香木の展示もいくつかありまして、紀州徳川家の極書が出ていました。極書って由来が書いてあるんだよ、と以前教えてもらったのですが、由来書いてないじゃん。というのですが、わたしの感想。名香というものはそう、お店で売ったり買ったりはしないので、〇〇さんから譲ってもらったとかいくらで買ったとか書いておいてほしい。その、〇〇さんは××さんから譲り受けてるはずですし、なんか、ちょっと歴史軽視っぽいところがナニよね。

でも極書をばーっと広げてくれたのでガン見。

一. 柴船(香木名) 
の後に、どのくらい入っているか(何寸とか)書いてあって、かつ使ったら、いついつ使ったよ、とかあとこんだけ残ってるよ、とか書いてある。

きっと棚卸しの時に新しくするんだな、コレ。大変、興味深い。できればどこで使ったとか、何の会とかも書いてくれればいいのに。

香木「柴船」

さて、「柴船」ですが、これは一本四銘と呼ばれる香木ですね!一本四銘っていうのは字そのままで、一本の伽羅なのに三つの名前を持つ香木です。お香の本にも香木について触れているネットの記事にもだいたい出ている日本で蘭奢待の次くらいに有名な香木では?なにせ、森鴎外が小説化しているくらいですし。さくっとご紹介。

当時は長崎に異国船が来ると、珍しいもの(香木)を求めて大名の家臣が買い付けに訪れていました。『翁草』(1977年の随筆)によると、ある時長崎についた上質な伽羅の大きな木がありました。(ふたつに分かれていた)これは、ということで細川家の家臣が求めに行くと、そこには伊達家の家臣が…。さあ、お互い引くに引けません。もめにもめてたので、細川さんの家臣はとうとう仲間割れ。「伊達さんちにゆずってやろうよ」という同僚斬り捨ててまでその伽羅のいいほうをもって帰ったそうな。

今風にいえばこの話はずいぶん(バズった)炎上したようで、細川さんのその家臣はのちのち切腹した(同僚を斬り捨てたゆえ)とか、ほんとうは加賀の前田藩もかかわって四銘なんだ、とか。伝説はたくさんのこっています。柴船はそのうち伊達さんちの部分です。ちなみに、この話当時からすごく有名だったらしく、関白(秀吉)にそれちょーだい、言われて伊達さんしらばっくれるの巻、という伝説もあったりして。現在ではその伽羅は元木(いいほう)を細川家、末木を伊達家、元木を朝廷に献上した分、との三銘って言われています。

柴船の証歌(お香の銘のもとになった和歌)はこちら。

世のわざの うきを身につむ 柴船は
たかぬさきよりこがれゆくらむ

能の「兼平」の一節です。

すごい大きくて、関白にはあげないのに、徳川家にはあげたんだw(だって紀州徳川家の香木って書いてあったし)と性格の悪い感想を持ちながらニヤニヤ見てしまったよねー!!

香木「縮」

今回、紀州徳川家の所蔵香木でもう一つ出ていたものに「縮(ちぢみ)」の展示がありましたね。縮というだけに、木がうねって縮んで見える香木でした。

縮は佐々木道誉が名付けた香木だと、言われています。
婆娑羅大名、佐々木道誉登場です。

ばさらというのは派手にむちゃくちゃなひと、という意味です。
当時の感覚は今と全然ちがって、バカにされたから、焼き討ちしちゃうとかいうひとがいっぱいいたというのに、そんな鎌倉武士に婆娑羅言われるとかどんだけオカシイ人なんだ…(同時代の高師直も言われてた)

京極家生まれの道誉さん。乱れた世の中でしたし、天皇も公家も、だいたいのひとをあっさり裏切りますが、どういうわけか尊氏だけは裏切らなかった。足利尊氏の心の友であり、室町幕府の影の親分であり、その間の政争にも勝ち続け、足利義満にまで仕えました。
茶も花も連歌も能も、もちろん香も、道誉がいなかったら成立してなかったかも…!!というほどの人物ですよー。では佐々木道誉とお香の話を、ひとつだけ。


政敵にちょっとしてやられてしまった道誉さん。どうにかして相手に一泡吹かせたい。ちょうど相手が花見の会を開くと聞いたので、同日、同時刻に更に大規模な花見の会を開き、そこに派手派手しくたくさんの人を呼び、かつ手持ちの1斤(だいたい600gくらい。通常香席では1gも使わない。)の香木をガツンと火にくべて、花見会場の外にも「なに、この天国?!」と伝説になつた(政敵の面目丸潰れ)とさ。

もともと、仏教と一緒に日本に入ってきた香木です。最初は基本的に粉にしてほかのものと合わせて丸薬状にして「薫物」とするのが普通でした。道誉の逸話からこの頃には香木そのものを焚く、という使い方をされていたことがわかります。

にちなんで、もう少しだけ。佐々木道誉の頃、香木を焚く、ということが行われたんだね、と書きました。
建武の新政のころ、「二条河原落書」にはこの頃都に流行るもの、として、茶香十炷の寄合も、とあります。

もちろん、道誉も香莚をしていました。今のとは違い、利き香(利き酒っぽい)みたいたやつで、優勝者には道誉からすごい商品が…(反物たくさん、とか)貰えたそうですよ!
(参加したい!!)

いい香木が入った時に、風流人たちは香りとか、見た目とか、どこから来たか、とかで銘、つまり香木に名前をつけました。
道誉は180種、もしくは伝説によっては200種くらい香木をもっていて、それぞれに名前が付いていたらしいです。

豪勢だなあ。もし、タイムマシンがあるなら、絶対道誉んとこ行って、少し分けてもらうのに。。。

香木「法隆寺」

六十一種名香のところに、「法隆寺」が出てました。法隆寺にはこんな逸話がありますよ!

飛鳥時代、淡路島に初めて香木が流れ着きました。あんまりいい匂いがするので、推古天皇に献上されました。聖徳太子は知識として「これがあの沈香!!」と知っていたので、その木で観音像を彫らせせました。そこで出た木屑がそれ、そこの「法隆寺」!ババーン!!

うっかり効果音いれちゃいました。
でも、そのお寺、ほんとは法隆寺じゃないけどね…。
ちなみに、その観音像は光ってたらしいですよ!「日本書紀」と「日本霊異記」によると。

(えー、それほんと伽羅?!ちがくない?)
まあ、伝説です、伝説。

香木「蘭奢待」

香包に「源三位頼政伝来」とありました。

頼政さんは、平安時代末、後白河天皇と崇徳院の対立でおなじみ、保元平治の乱で活躍しました。平清盛の盟友でもあります。そして、源氏の棟梁です。

清盛の盟友ゆえに、三位にまで出世した武士です。だから、「源三位頼政」それは九条兼実が「珍事」と日記に書くくらい破格の待遇だったんですけど、よかったのはそこまで。その後、平氏と後白河院が対立して、頼政さんは後白河院側についてクーデター起こしたりいろいろあって、頼政さん(もう引退してましたけど)も平氏一門滅ぶべし!!的に自害するのが平家物語の導入だよ。

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月岡芳年の描いた浮世絵です。

そんな頼政さんは和歌上手で藤原俊成なんかとも仲良しでした。どこをどう通って頼政さんの手に蘭奢待は入ったんだろうね?当時は正倉院わりと開け放題だったのではないだろうか?
そこの物語を知りたいんだなあー!!

と思っていたら先日こちらの展示をされた方とお会いしまして。「あれは蘭奢待だけど、蘭奢待じゃない」というね。(知ってたけどえ~~~~~!!!)

東大寺にある「蘭奢待」と別の「蘭奢待」が存在しています。しかも2種類じゃないらしい。

しかし、かつては「これが蘭奢待ですよ」「特別に分けてあげるよ」といえば蘭奢待になってしまうという、時代が確かにあったそうです。

そして、それをまた「ちゃんと〈伝〉と入れないと(伝、というのはそう伝えられてるけど証拠がない、とか多分違う(にせもの)だけど、そう伝えられているという意味の伝)とかいう人もいたりして。

この先はちょっとデリケートなお話なので、この先は有料にさせていただきます。

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