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写真を撮る意味

最近写真撮るの頻度が少し減っているらしい。偶にこうなるだね。

カナダに来たほぼ二年間写真集とか何か作りたいが、今まではまだ出きってない。困るなあ。まあ大丈夫さ後で何とかなるよ、ゆっくりしたらいい(かも)

昔撮った写真が見せながら本題を話しましょう。

人生初めて買ったカメラ Nikon FE2で撮った。フィルムはもう生産終了された Agfa Vista 200(2017年)
(2017年、Nikon FE2、Agfa Vista 200)

本気に写真撮り始めたのは大卒あと、大学で働いた時期。大学図書館に写真集がいっぱいある、高い、珍しいのやつもいくつかがあるらしい。そのおかげで色んな写真集読んで、写真集や写真作品の形が少しずつ分かってきた。

その前に撮った写真は単純に、きれいな景色や物や人とか残りたいために撮た。別にプロジェクトや写真集とか作りたいなんか考えてない。それは別に悪くはないけどね。ただ今の僕はあの頃の僕じゃないだね。

当時風景写真を偶に撮る。カメラを出し場合はほぼハイキングと旅行の時しかない。

写した看板は今いくつ残しているだろうか(2017年、Nikon D810)
風景写真も偶に撮る。その場合には、できるだけクリアファイルで撮るように。(2017年、Nikon D810)

写真を撮れば撮るほど、写真を撮る意味が一体何なんだ?と思ってる。

例えば風景写真は同じスポットで撮ったら、皆大体同じ写真が撮れるじゃないか。もちろん天気や構図やレンズとか写真に大きく影響があるけど、同じスポットにきっと無数の人が無数の写真を撮った。もし僕も撮るなら、ただ以前の人に撮った写真が振り返し、(大体)同じ写真を撮るじゃないかと思た。それなんか…あまり意味がなくない?

目の前の景色や物がきれいだから意味なんか深く考えないと撮る。それは悪いことじゃない、自分もよくする。

しかし、写真に通じて何か話したいとしたら、写真を撮る意味がちゃんと伝えるのは大事。自分の感情であれ、ある場所の記録であれ、ある人に対しての感情であれ、整理、考えないと見る側の人が表現したいことが理解し難しいでしょ。そしたらただ写真コレクション、プロジェクトや写真集にならない。

以上は多分他の芸術な表現も同じだろうか。ただ僕は写真が好きから、写真が選んだ。

つづく



以下は写真コーナー

友達とどこかフォトウォークする時期だった。(2017年、Lubitel 166U人生初めての120カメラ)
祖父母しんでいる公営住宅、21階があり、四千人住んでいるらしい。サイバーパンクっぽいでしょう。(2017年、Nikon D810)
(2019年、Olympus XA2 Fujifilm X-TRA 400)
初めて映画用フィルム Kodak Vision 3 50D 使ってみた。現像は ECN-2 じゃなくて C41 だったから、写真が緑っぽくて。(2018年、Nikon FE2)
クリスマス友達の家にパーティーした。(2018年、Nikon FE2、Ilford Delta 400)
父親の影響で写真始めた。構えている Nikon D810 は父親が今も偶に使っている。この写真はOlympus XAと生産終了された富士フィルム業務用100で撮った。しばらくしたら売ってずっと後悔していた。(2016年)

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