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期待が重圧になる時,ならない時の違いは何でしょう?

ずっと周囲の期待が
重圧となる選手とならない選手の違いは何だろうと考えていました。
一つには期待される結果と
選手がそれを達成できるという自己効力感の間にギャップがある場合だろうとは思っていました。
コロナ禍で練習も思ったようにできない状況で,東京オリンピックに出てメダルを期待される
というのが良い例ですね。
もちろん選手の責任感の強さなど様々な要因が関係していると思います。

最近メジャーリーグのポストシーズンに入り,
ふと大谷選手の記事を読んでいて気づいたのは,重圧にならないのは,
自分がそれをできるから期待されていると
シンプルに思えているからじゃないかと思いました。
そうシンプルに信じられる背景には,
まず,期待している周囲の人(監督やコーチ,保護者 etc.)がその選手がそれを達成できると
真に信じていることが大前提です。
そして期待している人と選手との間に
信頼関係が築かれていることも必須です。
「この(信頼する)人ができると言ってくれてるんだから,できるに違いない。」
と思えれば心の支えになると思うのです。
もちろん,指導者の場合はそのレベルで指導するのにふさわしい経験や知識が必要ですが。
それだけでは不十分で,
さらに,それまでのプロセスを見ていて
自分のことをわかってくれていると選手が思えることも必要です。
「自分のことを良く分かっている人ができると期待してくれているんだからできるに違いない」と自然に思えるわけです。

では,期待が重圧となってネガティブに働く場合はどうでしょう?

期待する周囲の人がその選手がそれを本当に達成できるのかと疑っている場合ではないでしょうか?
以前,「どうせはNGワード!」という記事を書きました。
「どうせお前には無理だ」のような言葉かけで
本人の負けん気を刺激して奮起させようとしているのだとは思いますが,
これを普段やっていると,
いくら大事な場面で周囲の人はできると思って「(お前はできるから)がんばって結果を出してこい」と期待しても、選手本人は
「自分は本当にできるのか?期待に応えられるのか?」と不安になるんじゃないでしょうか?
こんな不安を抱えていては
周囲の期待は重圧となるだけで
心の支えにはならないでしょう。

できていないことを「できている」と褒めるのも不適切ですが,
今できていないからといって,
「どうせお前には無理」と未来のことまで
決めつける必要はないと思うのです。
(“先読みのあやまり”という認知のゆがみの一種です。)
仮に,その時は奮起して、できたとしても
悪影響を及ぼす目になりかねません。

無理と言われたけど頑張ったらできた場合には,
「どうせ無理と言われてもできた」と
自己効力感につながるかもしれませんが,
「この人は自分はできないと思っている」とも
刷り込まれますね。
もし,この人が「いやー自分が間違ってた。やっぱ,ちゃんとできるんだな。ごめんね」と
誤りを認めたら,
「どうせ無理」は刷り込まれないとしても,
この人の観察眼や指導力に疑問が生じることになります。

期待を重圧にさせないためにも
やっぱり「どうせNGワード」なんです。